幕末から明治・大正・昭和の初めを生きた渋沢栄一。彼の足跡は実業界だけでなく、民間外交・教育・福祉と多方面に広がる。91年の多彩な生涯を追う。
パリ万博使節団に加わり、資本主義の実態に触れる
渋沢栄一が一橋家に出仕して2年後、慶喜は15代将軍に就任。かつて討幕を画策した栄一は、意に反して幕臣になってしまった。
この直後、慶喜の実弟・昭武がフランスで開催されるパリ万国博覧会に派遣されることが決まり、栄一は経理・庶務全般の担当として随行することになったのだ。
出発は慶応3年(1867)2月15日(新暦)。乗船地は横浜港。旅の記録『航西日記』によれば、栄一は船中で早速フランス語に取り組んだ。ところが船酔いがひどく、あまり進まなかったという。
「栄一の異文化への好奇心や順応力はすごいですね。日本人が初めて食べるバターやパンにすぐ慣れている。ワインは水を加えて飲んでいます。食後にはカフェオレを飲み、〈すこぶる胸中爽やかにする〉と記しています」 (渋沢史料館館長・井上潤さん)
社会のシステム化への関心
パリ到着は4月11日。万博は4月1日から10月までの開催。42か国が参加し、日本からは江戸幕府以外に薩摩藩と佐賀藩が出品した。
栄一は公式行事に随行しただけではなく、市内各所を見学した。ナポレオン三世の治下、大改造された街は活気に溢れていた。
栄一を案内したのは銀行家・フリューリ=エラール。栄一はこの人物から、企業経営のノウハウを細かく学んでいる。
「栄一が視察したのは、銀行や証券取引所、病院、福祉施設、植物園などの娯楽施設、さらに、ガス・水道の近代的なインフラ構造です。注目すべきは、それらの施設・整備がどのように運営されているのか、つまりヒト・モノ・カネがどのように動いているのかというシステムに関心を示している点です。栄一は資本主義(※渋沢は資本主義のことを合本主義と呼んでいた。)の根本を知りたかったのです」
と井上潤さんは語る。
※この記事は『サライ』本誌2021年2月号より転載しました。