明智光秀を動かしたのは信長包囲網?
信長は、天正3年11月に従三位権大納言に昇進し、あわせて右近衛大将となっている。これは、将軍に相当する立場だという。藤田さんは、信長は翌天正4年2月に安土城を御所とする「安土幕府」を草創したとみている。義昭を追放したので幕府を開いたのではない。逆に、義昭が鞆幕府を率いているからこそ、それに対抗する立場が必要だったのだ。
信長包囲網の勢力は、室町幕府由来の「室町殿=将軍」権威を重んじ、これに従う勢力だった。信長が彼らを倒し、あるいは従わせるためには「将軍」や「鞆幕府」に対抗しうる立ち位置、権威が必要だった。それが右近衛大将であり、安土幕府だったということになる。
信長包囲網が、実は「室町時代秩序を維持しようとする政治運動だった」とは、そういう意味なのだ。そして、この包囲網に参加したのは武田、上杉、毛利といった信長政権を取り囲む全国の勢力だけではなかった。
信長の重臣層でも、たとえば政権内の派閥抗争によって窮地に追い込まれた人物がいる。このままでは政権内で居場所を失ってしまう。そう考えた人物がいたとしても不思議ではない。荒木村重や松永久秀など、実際に「暴発=謀叛」に走ってしまった先例もある。
その重臣の眼前に、「信長の専横を止める」という目的において、たくまずして一致する政治運動=信長包囲網が横たわっていた。運動の要となっていたのは、室町時代秩序を象徴し、体現する将軍足利義昭だった。
重臣は、ついにある決断をする。野心に突き動かされたわけではない。だれか「黒幕」にそそのかされたわけでもない。
——その窮地に追い込まれた重臣こそ、『麒麟がくる』の主人公であることは、すでにお分かりだろう。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。