土橋若太夫殺害の真相

ところが、本願寺勢力のなかには、信長との「和解」に対して異を唱える存在が教如以外にもまだ残っていた。

雑賀衆の有力者である土橋若太夫胤継(土橋守重とも表記されるが、当時の史料では若太夫胤継)が、天正10年の正月に鷺森御坊を参詣した折に、雑賀衆のもう一人の指導者である鈴木孫一の放った刺客によって殺害されるという事件が起きた。雑賀衆の内紛と言えよう。孫一は、さらに若太夫の息子たちが籠もる城を攻撃した。

こうした事態にあわてた顕如は、鈴木氏と土橋氏の争いを止めように和解を勧告するが、鈴木孫一はこれを聞き容れず、土橋若太夫の長男・次男・4男は逃走、3男は討ち死にし、5男の楠千代だけが残った段階で、ようやく孫一は顕如の仲裁を受け入れて和睦したという。

この「事件」は、従来、『信長公記』が記すように、天正9年に孫一の継父が土橋氏によって殺害されたことへの報復行為と考えられていた。

しかし、本能寺の変研究で知られる三重大学教授の藤田達生さんによると、この事件の背後には、信長の存在があるという。もともと雑賀衆のなかでも、鈴木一族は信長に対し融和的だが、土橋氏は反信長派として行動していた。土橋若太夫は土佐(高知県)の長宗我部元親と近しい関係にあった。その元親は、信長の四国政策の転換によって、窮地に追い込まれていた。

若太夫は、「反信長」という目標において、長宗我部元親、そして信長に追放されて毛利に身を寄せていた足利義昭、さらには本願寺を追われて各地の一向一揆勢力の糾合を図っていた教如とも、手を結ぶ「動機」があったのだ。

藤田さんは、四国攻めを視野に入れていた信長は、長宗我部との太いパイプを持つ若太夫の存在を事前に排除しようとして鈴木孫一に援軍を送り、土橋氏討滅を図ったのだろうと推測している。

当時の信長にとって、武田を滅ぼした「次」の目標は、中国・四国の平定であった。10年にわたる石山合戦で信長を苦しめた本願寺、なかでも強兵で知られる雑賀衆に、長宗我部氏と近い存在がいるのは、非常に「目障り」だったはずだ。それは足利義昭を中心とする新たな「信長包囲網」のもう一つのピースになりかねない。

信長は、この雑賀衆の「内紛」を利用し、あるいはそれをけしかけることで、不安要素を取り除いたのかもしれない。

「反信長ネットワーク」の動き

さて、そのころ教如はどうしていたか。

天正10年春、越中の五箇山にいた教如は、越後の上杉景勝と連携を図っていた。景勝は、信長軍団の柴田勝家と直接対峙し、激しい圧力を受けていた。さらに、越後東部の蒲原郡を治める有力家臣の新発田重家が、景勝に反旗を翻した。戦の恩賞への不満が高じての謀反とされるが、当然、織田方の柴田勝家とも連携していたのだろう。

東の新発田重家、西の柴田勝家と、両「しばた」に挟撃されることになった景勝は、窮地に追い込まれた。そこで景勝は、教如を頼る。教如の号令で、越中の門徒(本願寺信者)がいっせいに立ち上がり、柴田勢に攻撃を仕掛ける。それが景勝の狙いだった。

教如は上杉景勝と連携して、柴田勝家に対抗したことになる。北陸の地でも、「反信長」のネットワークが、機能していたことがわかるだろう。

本能寺の変後の本願寺

天正10年6月2日、本能寺の変が勃発。

6月11日になると、顕如は明智光秀に対し、信長打倒を祝して今後の親交を求める書状を送った。事件の直後ではないので、これが光秀と顕如が事前に手を結んでいた「証拠」とは言えないが、両者の利害が一致していたか、あるいは光秀が新たな天下人なると見越した顕如がすり寄ったか、そのいずれかであることは確かだろう。

しかし、そのわずか2日後に、光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、命を落としている。

光秀に接近していた顕如や、北陸の地にあって反信長運動を続けていた教如は、さぞかし慌てふためいていたことだろう。

とはいえ、本願寺勢力としては、ジェットコースターのように揺れ動く事態を受け入れて、現実的な対処をしなければ生き残れない。

明智光秀討伐後の、織田家の行く末を決める清須会議が開かれた天正10年6月27日、天正8年から義絶状態にあった顕如と教如父子の間で、「入眼(じゅがん)」と呼ばれる和解が成立し、8月には天皇の勅命を受けて両者の和解を仲介した勅使を鷺森に招き、祝賀会も開かれた。

信長が死に、信長を討った光秀も死んだ。もはや本願寺の法主父子がいがみあう必然性はなくなったということだろう。

信長に敗れ、大坂退去を余儀なくされた本願寺は、いわば世俗権力に屈したことになる。

その本願寺が、本能寺の変という政変にどのようにかかわっていたのかは、まだ完全に解明されたわけではない。しかし、自らの生き残りをかけ、何らかのかたちで能動的に行動した可能性は、まだ排除できないのではないか。

その本願寺も、顕如の死後、かつての父子対立を引きずった内部対立が起き、それが教如とその弟の准如による後継者争いへと発展。やがて本願寺の分裂(東本願寺と西本願寺)という事態を招くことになる。

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。

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