『麒麟がくる』でも光秀(演・長谷川博己)は自身が築いた坂本城を「水の城」と呼び、妻煕子を天主に案内していた。

織田家の出世頭だった明智光秀(演・長谷川博己)は、信長家臣団の中でいち早く城持ち大名となった。『麒麟がくる』で妻煕子(演・木村文乃)とともに天主で今様を口ずさんだのは記憶に新しい。その坂本城の成り立ちを、かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

* * *

『麒麟がくる』の放送開始以来、明智光秀にさまざまな光が当てられ、これまで「不明」とされてきた、信長に仕える前の前半生についても、わずかながらも新しい情報がもたらされるようになってきた。

そんな、「光秀にまつわる新情報」のなかで、ひときわ歴史好き、戦国時代好きの注目を集めるのが、光秀が築いた「城」についてだ。

光秀が丹波攻略の際に拠点の一つとした周山城(京都市右京区)は、その場所も広さも特定できていなかった。しかし近年、上空からのレーザー測量によって、周山城は東西二つに分かれた城で、石垣を多用する東の城には、天守台があったことが明らかになった。

また、同じく光秀が築いた福知山城については、今年の7月、明治初めに撮影したと思われる天守の古写真が発見され、独創的な形状を示すこの天守が、天正7年(1679)に光秀が築いた天守である可能性があることも判明したのだ。

大河ドラマに取り上げられることで注目が高まり、それまであまり関心をもたれなかった史料が紹介されるなどして、新たな事実が明らかになることは、実は珍しくない。光秀の「城」についても、まだまだ新情報が期待できるのではないか。

そう思っていたところ、光秀が初めて築いて居城とした坂本城(滋賀県大津市)について、新たな発見があったようだ。

坂本城は、比叡山の焼き討ちを断行した織田信長が、焼き討ちで顕著な働きを見せた光秀に命じて築かせた城だ。元亀2年(1571)、坂本を含む志賀郡を褒美として与えられた光秀は、ほどなく坂本城の築城を開始する。

元亀4年6月には、「天主」の下に小さい座敷(屋敷)を建てて移り住んだと記録されている。それまで光秀は、坂本の南に位置する宇佐山城を信長に与えられ、居城としていた。この宇佐山城は、石垣を使用した、当時としては先進的な城で、城の中心部分となる主郭の入り口には敵の侵入を防ぐために入り組んだ作りの「虎口」も設けられていた。

信長が築いた城は、石垣を多用し、城主の居場所である主郭と、その家臣たちが住む場所とが階層的に配置されているといった特徴をもっていた。家臣たちもこぞってこうした城造りを模倣したようで、彼らが手掛けた城は織豊系城郭と呼ばれている。この宇佐山城は、織豊系城郭の特徴を示す早い段階の城だと考えられている。

その宇佐山城を居城とした光秀が、ついに自らの手で築いた城、それが坂本城だ。信長の「こういう城を築きたい」「こんな城が欲しい」という築城思想を、光秀は十分に理解していただろう。当然のことながら、坂本城はそれを具現化した城であったはずだ。

京都の公家吉田兼見の日記『兼見卿記』には、坂本城が信長の安土城にさきだって「天主をもつ城」であったことが記されている。小天主で茶会を開いたという記事もあるので、大小ふたつの天主をもつ城だったのは明らかだ。ちなみに、普通は城の「天守」と表記するが、安土城は当時の記録に「天主」と書かれているため、「主」と書くのが慣習となっているが、坂本城も「主」と記録されているので、ここでは「天主」とした。

宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』に、坂本城が安土城に次ぐ「豪壮壮麗」な城であったと書きとどめている。また、築城から4年後の天正3年(1575)に坂本城を訪れた島津家久は、船に乗って琵琶湖から坂本城に入り、城内見学をして倉庫が林立する様子を実見したと、『中書家久公御上京日記』に記録している。琵琶湖に面する立地を生かし、船着き場を設けた「水の城」でもあったことがよくわかる。

琵琶湖に臨む坂本城跡公園
(写真/(公社)びわこビジターズビューロー)

1979年に初めて発掘調査

当時の光秀は、織田家中において日の出の勢いで出世を続ける部将であった。自らの居城を、信長が理想とする城とするために力を注ぎ、さらには信長に先んじて「天主」というランドマークを備える城としたのは、その何よりの証しだろう。

ところが、ご承知のように、光秀は天正10年に本能寺の変を起こし、羽柴秀吉に敗れて命を落とす。当然、その居城である坂本城も攻め落とされる。

光秀に関係する文書などの史料は、すべて廃棄されたのだろう。 坂本城自体は丹羽長秀、杉原家次が相次いで城主となり、豊臣政権下でも存続したが、新たに城主となった浅野長政が秀吉の命を受けて大津城を築城して移ったため、坂本城は廃城となってしまった。

その後、城地は荒れるに任せ、近代には市街地化も進んだため、坂本城は「幻の城」となってしまったのだが、昭和54年(1979)に、初めて発掘調査が行われた。宅地造成に伴う行政発掘で、エリアも限定的ではあったが、光秀時代の礎石建物や柵、井戸などの遺構のほか、大量の焼き物、瓦、刀装具などの遺物も発見され、わずかではあるが、光秀時代の雰囲気をのぞき見ることができた。

また、平成6年(1994)に渇水で琵琶湖の湖面が大きく低下したときには、湖のなかに石垣の基底が出現し、この城が琵琶湖に突き出した城だったことが、考古学的にも証明された。

さらに近年、水中考古学を専門とする豊橋市美術博物館学芸員の中川永さんらが、琵琶湖の水中調査を行ない、坂本城に関連する石垣などの遺構や、焼き物、瓦などの遺物を発見している。

12月2日にNHK総合で放送された番組『歴史探偵』では、この中川さんらが実際に坂本城沖の琵琶湖に潜り、60メートルにも及ぶ帯状に積まれた石の列や、石垣を築く際に、その裏側を補強するために詰め込む裏込石と思われる石が大量に発見された様子が放送された。

注目すべきは、近くから石垣の基礎工事に使われたと思われる材木も見つかったことだ。水堀の底など、地盤が軟弱な場所に石垣を築く場合、石垣の重さに地盤が耐えるように、堀底に胴木と呼ばれる太い木を敷き、位置がずれないように杭で地面に留めるという工夫がしばしばみられる。この胴木の上に土台の石(根石)を並べ、その上に石を積んでゆくのだ。

確かなことはまだわからないが、見つかった材木は、この胴木である可能性もある。とすれば、この石垣列は坂本城の天主を支えていた天主台石垣だったかもしれないのだ。

本格的な調査には膨大な時間と資金が必要となるので、坂本城の全貌が明らかになるのは、まだまだ先のことだろうが、そのとっかかりとなる発見があったのは実に心強い。

『麒麟がくる』の勢いを受けて、「明智光秀の城」を蘇らせる動きに拍車がかかってくれることを期待したい。

坂本城の跡地にひっそりと立つ城址碑
(写真/(公社)びわこビジターズビューロー)

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。

 

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