大河ドラマ『麒麟がくる』の中でも描かれた大和国をめぐる松永久秀(演・吉田鋼太郎)と筒井順慶(演・駿河太郎)の攻防は、18年にも及ぶ長期に渡った。その真相とは?
かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
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戦国時代の大和国(奈良県)は、大名不在の国と言われていた。すでに鎌倉・室町時代から大寺社である興福寺の力が強く、幕府は守護所を置かず、その役割を興福寺が果たしていたからだといわれてる。
しかし、戦国時代も後半に差し掛かると、大和国内でも国衆(国人領主)たちが力を持ち始め、領内の統治権を独占する戦国大名に成長しようと蠢動していた。
この大和の支配をめぐり、長く抗争を繰り広げたのが、松永久秀と筒井順慶だ。松永久秀は、室町幕府の管領を務めた細川家の重臣、三好長慶に仕えた土豪だったと考えられている。
一方の筒井氏は代々、興福寺の塔頭一乗院の衆徒(僧侶)の家柄で、同時に大和盆地の北部を支配する国衆でもあった。
順慶の父順昭は、大和国内の有力国衆を次々に支配下に入れる活躍をみせたが、28歳の若さで病に倒れた。残された嫡男の順慶(当時は出家前で藤勝〈ふじかつ〉と名乗っていた)はまだ満1歳だったので、叔父の順政が後見役を果たした。
その後、順慶が10歳となる永禄2年(1559)、松永久秀が大和に侵攻し、筒井氏の本拠である筒井城を攻め落とす。翌年には大和一国をほぼ手中に収め、信貴山城と、新たに築いた多聞山城を拠点として、大和の支配を確かなものとした。
こうなると、少年期から青年期にかけての若き順慶にとって、久秀を倒し、かつての本拠である筒井城と大和国を奪還することが悲願となってゆく。
「大和」をめぐる「松永久秀VS.筒井順慶」の構図
永正5年(1508)年生まれの久秀は、順慶よりも41歳も年上となる。久秀からすれば順慶など「小童」に過ぎないだろうが、順慶とて大和の名門の御曹司。余所者で成り上がりの久秀に一歩たりとも譲ることはできない。
当時としては、祖父と孫ほども歳の離れた二人は、久秀が織田信長に討伐される天正5年(1577)まで、実に足かけ18年にわたり、激しい衝突を繰り返すライバル関係になるのだ。
順慶の叔父順政は、永禄7年(1564)に討ち死にする。当時16歳の順慶の肩に、「打倒松永久秀」「筒井城と大和国の奪還」という悲願が、重責となってのしかかる。
しかし、青年武将・順慶は、久秀と対立する三好三人衆と手を組むなど、したたかな手腕を見せつつ、果敢に戦いを挑み続ける。そして永禄9年には、ついに筒井城を久秀から奪い返すことに成功。戦いを有利に進めていた。
ところがこのころ、巨大なインパクトが畿内に起きていた。
織田信長と足利義昭の上洛だ。
すでに久秀は永禄10年の段階で、上洛をうかがう信長と接触していたらしい。天理大学准教授の天野忠幸さんの研究によれば、信長に臣従したのではなく、この段階での両者は「同盟」関係にあったという。信長にとっては、畿内の情勢に通じた久秀を味方につけることで、上洛をよりスムーズに進めようという意図があったのだろう。
そして永禄11年、信長は上洛を果たし、足利義昭を将軍の座につける。信長と義昭を後ろ盾とした久秀は完全に力を盛り返し、大和国奪還をもくろむようになる。信長と義昭は、上洛に協力してくれた久秀に大和一国の支配を任せると通達する。
圧倒的に不利になった筒井順慶は、せっかく取り返した筒井城からも退去を余儀なくされる。そして翌元亀元年(1570)7月には、久秀は大和国内の知行割(領土配分)を実施。大和の支配を確かなものとした。
さらに同年12月、順慶とともに久秀に対抗してきた三好三人衆が、久秀と和睦をしてしまう。もっとも三人衆のひとり三好宗渭はこの年の5月ごろ亡くなり、弟の為三が跡を継いでいたが。
三人衆は信長に抵抗を示したが、連敗を喫し、信長に着いた久秀に完全に水をあけられていたのだ。久秀は「落ち目」の三人衆に和睦を呼びかけ、順慶を孤立させようと謀ったのだろう。
順慶と三好三人衆の同盟関係は、崩壊した。信長政権といち早く接触し、同盟関係を結んだ久秀の完全勝利――かと思われた。
しかし、翌元亀2年(1571)5月、久秀は失態を引き起こしてしまう。河内国の実力者、安見宗房の一族に安見右近という人物がいた。久秀の配下となり、ともに信長政権にしたがっていたが、久秀はこの右近を自害に追い込んだのだ。右近が将軍足利義昭に仕える和田惟政、畠山秋高と手を組んで久秀に敵対しようと企てたというのが、その理由だった。
久秀はすかさず右近が築城した片野城を攻める。すると、これに呼応して三好三人衆も畠山秋高の居城である高屋城に攻めかかった。
ことの真相は不明だが、和田・畠山という幕臣を攻撃された足利義昭は、松永久秀に不信感を抱くようになる。そして、久秀と不倶戴天の敵といえる筒井順慶に秋波を送り、その証として九条家の女を自らの養女として順慶に嫁がせたのだ。(『麒麟がくる』33話)
この足利義昭との接近によって、風向きが変わった。
中坊、箸尾など大和国の有力国衆が順慶になびき、松永方から離反し始める。
順慶は松永方の城に攻勢をかけ、辰市(奈良市)に要害を築いた。ここに至り、危機感を抱いた久秀は信貴山城から出撃して三好家の当主である三好義継とともに辰市城に攻撃を開始する。しかし、あらかじめこれを予想していた筒井方の反転攻勢を受け、松永方は主要な武将が何人も戦死する大敗を喫してしまう。
この辰市合戦に勝利した順慶は、意気揚々とかつての本拠、筒井城を再奪還した。このとき順慶は満22歳。ちなみに久秀は63歳。22歳の「若造」に煮え湯を飲まされた久秀の屈辱はいかばかりであったろうか。
【松永久秀「敵の敵は味方」で足利義昭と組む。次ページに続きます】