取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
還暦を目前に絵を描き始めた異色の絵師は、じゃがいもが大好物。週に一度は自分で作る、そのガレットが元気の源泉だ。
【木村英輝さんの定番・朝めし自慢】
まだ5歳ぐらいの頃、道端に蝋石で描いた絵が原点だった。木村英輝さんが幼少期を振り返る。
「近所のおばちゃんのリクエストに応じてすぐ描いて、みんなをびっくりさせたものです」
昭和17年、大阪・泉大津市に生まれた。絵が好きな少年はやがて京都市立美術大学(現・市立芸術大学)図案科に進み、卒業後は同大講師を務める。時は1960年代後半、’70年安保の前夜で大学は荒れ、教え子らも時代の空気に浮き足立ち、流されつつあった。
「美術系の学生が右や左やいうてどうするんや。僕らは文化的な革命を起こそうやないか」
そんな思いで企画したのが、日本初のロックフェスティバルである。その成功が海外での評価に繋がり、美大講師は日本初のロックプロデューサーとなった。プロデューサーとして社会と関わったのは、“紙に絵を描く”ことより“社会に絵を描く”ことを志したからだ。内田裕也・樹木希林夫妻との交流が始まったのもこの頃である。
’70年代後半~’80年代はポスターのデザイン、また伝説的なイベントの仕掛人として活躍するが、
「60歳を目前に、無性に絵が描きたくなった。それも美術館や画廊に飾られる絵ではなく、いろんな人が偶然に見てくれるような絵が描きたいと思ったんです」
こうして平成13年、友人の新社屋に描いた「犀のファミリー」が壁画第1号。その4年後には、青蓮院門跡華頂殿の襖絵「蓮三部作」という大作が誕生するのである。
外はカリッと、中はホクホク
絵を描き始めて17年。特段の健康法はないが、自分が“カッコいい、面白い”と思うことだけをするのが健康の秘訣だという。
そんな木村さんの朝食には、大好きなじゃがいもが登場する。
「といっても週に1~2回は、僕が作るじゃがいもの千切り炒め(ガレット)が欠かせません。北海道のじゃがいも農家の息子から教わった料理で、簡単に作れて、外はカリッと中はホクホクで、一度食べたらハマる味です」
知位子夫人が担当する朝は、ガレットに代わって卵料理やソーセージ、チーズなどが食卓に。加えて、季節の野菜サラダと玄米トーストが、木村家の朝の定番だ。
名誉や権威、伝統に囚(とら)われない“ロック”な絵が襖に壁に躍る
今までに描いた襖絵や壁画は、国内外に200点以上を数える。
「僕が壁画を描くようになったのは大学の恩師、リチ・上野=リックス教授の影響。講師時代に彼女の壁画制作を手伝ったのが原点です。場所は、東京・日生劇場の『レストラン・アクトレス』でした」
木村さんの絵は、いずれも明快な輪郭線と大胆な色使いが特徴だ。
「僕が図案科卒業というのもあるけど、線を突き詰めて形を創るというのが京都市美大の伝統。それに対して、東京藝大は面を追求する傾向にあります」
構図を決めるには“方位”を重視するという。自然とともに生きてきた人間にとって、その空間の光と風を素直に取り入れたいと考えるからだ。
「東と南の辰巳の方位、または西と北の戌亥の方位を軸に構図を考える。そこの方角に絵を向かわせるか、その方角から光や風を感じるか、その流れが決まればぐずぐず考え込むことはありません」
絵の具も、すぐ乾くアクリル製。地位や名誉、権威や伝統に囚われない、“ロック”な生き方が絵にも投影されている。
取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
※この記事は『サライ』本誌2019年11月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。