【サライ・インタビュー】
ビリー・バンバン
(歌手/菅原 孝・75歳、菅原 進・72歳)
――数々のヒット曲を歌い続ける兄弟デュオ。今年でデビュー50年――
「病気を患ったからこそ、感じる幸せも大きい。人生観もぐっと深まります」
※この記事は『サライ』本誌2019年11月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工)
──結成50年だそうですね。
菅原進(以下、進)「ひと言で表すなら、“奇跡”だね。実の兄弟で長く続けているというのもそうだけど、僕らふたりとも、5年前の同じ時期に大病を患っていて、普通だったらその時点で終わりです。でもこうやって今も、変わらずステージに立っていられる。こんなありがたいことはない。家族にも、スタッフにも、応援してくれているファンの皆さんにも、感謝しかありません」
菅原孝(以下、孝)「俺はまだ車椅子だから、“ステージに立つ”といっても、実際は座ってるわけだけどね(笑)。でも、同級生が引退する中、こうして現役でいられるのは誇りです」
──ご病気のこと、詳しく教えてください。
進「病気になったのは、弟の私が先でした。持病の糖尿病の検診で、定期的に血液検査を受けていたんですが、ある時、その検査で異常が見つかりました。2014年の初夏のことです。内視鏡検査で盲腸にがんがあるとわかったんです。最初は自分のことじゃないような感じでしたね。すぐに開腹手術を行ないました。生体検査をすると、がんはステージIIIまで進行している。リンパ節に転移していたのです。他の臓器へ転移する可能性も高いと言われました。ひと月ごとに検査したのですが、心配でね。検査のたびに“今日は大丈夫だろうか”と怯えました。検査で転移がないとわかると、病院の帰りにひとり、ビールで乾杯してね。お陰さまで、そうやって5年経ちました。兄さんが倒れたのは、僕の手術の2か月後だったよね?」
孝「当時94歳のおふくろが実家でひとり暮らしをしていましてね。介護のため、仕事帰りにしょっちゅう実家に行っていたんです。この日もおふくろの食事を作ったあと、トイレに行きました。力んでいたら、すとんと前のめりに便座から落ちてしまったんです。立ち上がろうとするんですが、足がぐにゃぐにゃで力が入らない。何が起きたのかもわからず、そのまま横たわっているしかありませんでした。どのくらい経ったかなあ。僕の姿が見えないことを心配したおふくろが、トイレで見つけてくれた。救急車で病院に担ぎ込まれたのですが、脳出血でした。出血は脳の右側で、左半身に障害が残りました」
進「その時おふくろがトイレに探しに来てくれなかったら、帰らぬ人になっていたかもしれないんだから、おふくろのお陰だね。やっぱり奇跡だよ」
孝「あの年も暑い夏でね。前の年におふくろが熱中症になって入院したんです。今年はそんな目にあわせちゃいけないと、頻繁に顔を出していたんです。そしたら……」
──その時のお気持ちはいかがでしたか。
孝「正直“なんで俺が?”と思いました。それまで人一倍健康や食生活に気を遣っていて、毎日、ジョギングと筋力トレーニングを欠かしませんでした。それなのに倒れてしまった。本当のことを言うと、直後は投げやりでね。たとえば車に乗っていると、無意識に“このままトラブルが起こって、消えちゃったらいいのに”と考えてしまうんです」
進「そこまで追い詰められていたとは……。気付かなかったな」
孝「でもね、こんな俺でも必要としてくれる人がいた。妻や子どもが俺の存在を認めてくれた。人は必要とされると、馬鹿力というか、生きる力がわいてくる。妻や子を残して死ねるか、と思い直すことができた」
──約1年後にはステージに復帰されます。
進「自分自身のがんのこともあったし、兄さんが倒れた瞬間、ビリー・バンバンは99%終わった、と思いました。でも、こうして戻ってくることができた。ステージで歌っていて、涙が出てきました」
孝「ファンの声援は嬉しかったね。“死ぬまで歌い続けたい”と心から思えた。音楽があって、本当によかった」
「ビリー・バンバンはおふくろと親父、両親ふたりの結晶です」
──おふたりが音楽に目覚めたきっかけは。
孝「三橋美智也、フランク永井……。ラジオから流れてくる歌謡曲ですよ」
進「僕はビートルズ以前のアメリカンポップスかなぁ。ポール・アンカにニール・セダカ。でも本当のきっかけといえば……」
孝・進「おふくろ!」
孝「おふくろはラジオの歌番組で優勝したこともあったらしく、僕らが小さい頃は、台所でいつも歌を口ずさんでました。家にはいつも音楽が流れているようなものでした」
進「親父は音痴だったけどね」(笑)
孝「弟はそのまま音楽にはまって大学でアマチュアバンドを組んでたりしてたけど、僕は野球少年。音楽の道に進むなんて、これっぽっちも思ってなかったなあ」
──そんな兄弟ふたりでコンビを組んだ。
進「作詞家兼作曲家の浜口庫之助ってご存じですか? 『バラが咲いた』とか、『空に太陽がある限り』とか」
孝「それに島倉千代子さんの『人生いろいろ』に坂本九さんの『涙くんさよなら』」
進「数々のヒット曲を世に送り出した浜口先生が、親父の友人の友人という間柄で、ひょんなことから、兄弟ふたりで浜口先生の門下生のような格好になったんです。先生の代官山のお屋敷に足繁く通いました」
孝「もし浜口先生に会ってなかったら、俺は音楽の道に進んでいなかったね。先生が背中を押してくれたから決断できた」
進「音楽好きのおふくろと、浜口先生に伝手があった親父。この偶然がビリー・バンバンを生んだ。ビリー・バンバンは両親ふたりの結晶でもあるんです」
──いよいよビリー・バンバン誕生ですね。
孝「本当は進のバンド名なんだよな?」
進「大学時代、ビリー・バンバンの名でバンドを組んでいました。アマチュアなのに結構人気があったんです。まだ兄貴はメンバーじゃありません。その時の持ち歌が、自分で作曲した『白いブランコ』。作詞した小平なほみさんは、同じ浜口門下生。当時先生のお屋敷の庭に白いブランコがあって、それに乗りながら作ったんです。しかもバンドのメンバーのひとりは、せんだみつおで……」
──あのタレントのせんださんですか?
進「そう。今でも仲がいいですよ」
孝「だから、もしかしたら3人のビリー・バンバンだったかもしれない」
進「でも浜口先生とレコード会社の人が、“せんだは『白いブランコ』のイメージに合わない”って」(笑)
孝「僕らがデビューすることになる1969年、男の兄弟デュオなんて日本にはいませんでした。進は高い声で、僕はどちらかというと低い。でも声帯が近いから、ふたりで声を合わせると不思議と絶妙のハーモニーになった。浜口先生はこれがわかっていたんだろうね。先生が兄弟デュオをやらせたがったんです。先生に言われなかったら? 弟とはいえ、音楽の趣味も違えば考え方も違う。会うと喧嘩ばっかりなんだ。絶対組んでないね」
進「本当にその通り。兄さんと久しぶりに意見の一致をみたな」(笑)
──そのおふたりが50年続いたんですね。
孝「もちろん紆余曲折はありましたよ。僕ら、デビューから7年後の1976年に、一度解散していますから」
進「デビュー曲の『白いブランコ』も20万枚以上のロングヒットになったし、テレビドラマ『3丁目4番地』(日本テレビ)の主題歌『さよならをするために』も80万の大ヒットになった。周りから見れば順風満帆なんだろうけど、この頃、いつも迷ってたんです。納得する曲が作れない。周囲の求める音楽と、自分のやりたい音楽も乖離していた。一度リセットしないと、どうしようもないところまで来ていたんです」
──解散されたあとは。
孝「僕はせんだみつおの縁で、同じ事務所に所属し、司会業に進出しました。仕事は順調そのものでしたが、プライベートは災難続き。知人の連帯保証人になって多額の借金を背負いました。娘は統合失調症を患い、今も闘病を余儀なくされています」
進「僕は休息を欲していました。でも妻にはそれが理解できなかった。今なら妻の気持ちがわかります。急に夫が無職になり、一日中家で酒を飲んでるんですから。そりゃ不安です。でも妻に“暇ならお店でもやればいい”と強く責められ、自分を見失いました。結局、離婚することになってしまい……」
──1984年に再結成されます。
孝「解散して7~8年経っていたかな? 僕のところに“1日限定でいいから、ビリー・バンバンのコンサートをやってくれ”という依頼があって。すぐに進に伝えました」
進「即答で“嫌だ”と言いました(笑)。でも兄貴が勝手に話を進めてたんだよね?」
孝「おふくろから“ビリー・バンバンの活動をしないのか”とずっと言われていてね。それもあった。話を進めてしまえば進も断れないと思ったんだよ」
進「迷いつつリハーサルに行きました。でも久しぶりに『白いブランコ』を歌ったら……」
孝「これが昔と同じでぴったり。ああ、自分たちはビリー・バンバンだなって思ったよ」
進「いろいろあったけれど、自分の居場所はここだと思いましたね」
「人生の最後までビリー・バンバンとして楽しんでいたい」
──「いいちこ」のCMが評判ですね。
孝「再結成から3年後かな? 進の声が、CMディレクターの琴線に触れて採用されたんです。進のソロのCM曲もヒットしてね」
進「でも僕はあくまでビリー・バンバン。どうせやるなら、ふたりでやりたかった。そう申し出たところ、ディレクターの河北秀也さんが快諾してくれて、それであのシリーズになったんです。今CMで流れている『さよなら涙』まで、僕のソロ曲も入れると全部で13曲になりました」
孝「ありがたいよね。このCMで、僕らのファンになってくれた人もたくさんいるわけだから」
──結成50周年ツアーの真っ最中です。
進「おふくろにも、俺たちが病気から復活して歌ってるとこ、見てほしかったけどね」
孝「本当だな。でも大往生だよ。96まで生きたんだから。俺たちふたりの復活のステージ(2015年10月)も楽しみにしてくれていたし。何より、ビリー・バンバンの病気からの復活をいちばん喜んでくれたのは、おふくろだった。おふくろから“良かったよ”と言われたひと言が、今でも耳に残っています」
──共に70代ですが美声はかわりません。
進「解散した頃、音楽に悩んでお酒に逃げたりしてたけど、今ね、ようやくわかったんです。これが自分たちの音楽なんだって。こんなにときめくもの、他にない。声もそうで、今、音楽を楽しめているから、本当に自然に発声できている。自分でも声が伸びているのがわかります。良かったよ、お店をやらなくて(笑)。音楽? 僕の生きがいだな。70歳過ぎて、ようやく気づいた」
孝「音楽が生きがい? だめだよ。仕事と生きがいを一緒にしちゃ。俺のフランス語みたいに、別の楽しめる趣味を持たないと。楽しいぞ、フランス語の新聞を読んでいると。“こんな見方があったのか”と自分の世界が広がっていくのがわかる」
進「放っておいてくれよ、兄さん。俺は自分が幸せだと思ってるんだよ。いちばん好きなことを仕事にできたんだから」
孝「だからそれがダメなんだって」
進「こうやって些細なことでもめるのも、兄弟だからできることなんですけどね」(笑)
──これからの行く末は。
孝「病気をして気づきましたが、誰だっていずれ死にます。脳出血は発症者の4人にひとりが死ぬ病気ともいわれていますが、私はたまたま、3人のほうに入っただけ。それもたまたま、脳の右側の出血だったので、声を出すことができ、今も歌うことができる。考えてみれば、人生とは死ぬまでの束の間の暇つぶしです。暇のつぶし方が人それぞれというだけ。僕は最後まで、ビリー・バンバンとして楽しんでいたい。そして最後の瞬間、面白かったと思うか、悔しかったと思うか。自分がどう感じるか、今から楽しみですね」
進「5年前にがんと宣告された時、実感がわきませんでしたが、不思議と死ぬことは怖くありませんでした。でもこの世界には、自分の愛する家族がいる。彼らから引き離されることは怖かった。でも5年経って、がんの再発もなく、こうしてステージに立てています。病気を患ったからこそ、感じる幸せも大きい。こういう言い方もおかしいけど、神様が病気という災いを与えてくれたのかもしれない」
孝「僕らだけじゃなく、この年になれば皆ひとつやふたつ、死と直面するような大きい病気をしている。でも克服すると、人生観がぐっと深まる。だからって皆、病気になれってことじゃないよ(笑)。……まあこれも、生きているから言えるんだけど」
進「そうだね。生きているからこそ、歌い続けられるんだね」
ビリー・バンバン(Billy BanBan)昭和44年にデビュー。デビュー曲『白いブランコ』が20万枚のロングヒットとなる。昭和51年に解散するも昭和59年に再結成。ふたりの病気やその後を綴つづった初の自叙伝『さよなら涙 リハビリ・バンバン』が好評発売中。アルバムにベスト盤『ALL TIME BEST』、最新のCD+ DVD アルバム『50年の歴史〜50YEARS HISTORY BEST OF BILLY BANBAN〜』など。
※この記事は『サライ』本誌2019年11月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工)