取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
現場を退いた60歳から、血圧と腎臓に配慮した食生活を実践。醤油を一切使わない朝食が、世界を駆け巡る行動力の源だ。
【小杉左岐さんの定番・朝めし自慢】
北はロシア、南はイランと国境を接するアゼルバイジャン共和国。10年ほど前、この国に日本庭園が誕生した。手がけたのは日本の造園会社、『小杉造園』である。社長の小杉左岐さんが語る。
「海外を目指したのは、日本での日本庭園の激減です。これでは腕のいい職人は育たない。私はかねがね職人の社会的地位をもっと上げたいと思っていたし、優れた職人も育てたい。そこで出した結論が、世界への進出だったのです」
これを契機に海外からの依頼が増え、バーレーン、韓国、ジョージア、キューバなど世界10か国に日本庭園を設計・施工。全てに通じるのが、現地の文化や事情に合わせた“責任ある庭づくり”だ。
土壌調査に始まり、日本庭園に合う現地の木々を見極める。もちろん施工にも現地の力を借りる。
「日本から職人を数名派遣しますが、作業は現地で雇った人々を指導しながら進める。最終的な目的は、日本庭園づくりを通した現地の雇用創出。だから、施工後の管理の仕方も教えます」
昭和21年、江戸時代から農業を営んでいた小杉家に生まれる。大正時代に造園業にも進出した“植木屋の3代目”として家業を継承。昭和期から近隣の政財界人の自宅の庭などを手がけてきたが、次第に都内の日本庭園は消えていった。今は、集合住宅敷地内の植栽や管理が主な事業だ。
鮨も酢で食す
60歳で現場を離れたが、一年の3分の1は海外出張。現地の大学の造園学科創設やその教科書作り、また講習などで年間2000人の外国人に会う。造園の仕事をしながらの国際親善である。
そんな小杉さんだが、現場を離れたのを機に食生活が一変した。
「血圧が高いのと少し腎臓が弱いので、醤油や塩は一切使いません。その代わりに多用するのが、酢。サラダも酢とほんの少しの蜂蜜で。私は鮨も酢でいただきますし、肉や油分も控えていますね」
それは徹底していて、夫人によればサラダに入れる胡瓜も、“塩もみ”することを禁じられているという。かくして、朝食の献立は野菜と果物が中心である。
昼は社員を誘って外食。近所の蕎麦屋や定食屋、レストランなど5軒ぐらいを順番に回る。それもこれも近所の商店街を元気にするためだ。夜も外食となることが多いが、醤油を使わないのは周知のこと。気に留める人は誰ひとりいないという。
技能五輪で金メダル受賞、海外へ進出するきっかけを作る
海外に進出するために、まず目指したのが技能五輪への挑戦だった。これは正式には「国際技能競技大会」と呼ばれ、2年に一度開催。建築や美容、料理など多彩な種目がある。造園が正式種目となった平成7年に初参加したが、4位。小杉さんは同19年の日本大会に焦点を絞り、勝つための戦略を立てた。それが1億円投資し、同15年に完成した熱海研修所である。
「18歳の若い男女をペアとし、ここで3年間、専属のコーチを付けて徹底的に鍛えた。それ以外の仕事はさせませんでした」
造園の競技はヨーロッパからの参加企業が強かったが、目標の日本大会で見事に金メダルを獲得。初出場から12年が経っていた。
「金メダルを獲ったことで当社の技術力の高さが広まり、日本庭園も注目されるようになった。すると、今度は世界の人々が小杉造園を訪れてくれるようになりました。また、ヨーロッパの造園家たちも日本庭園を作るなら日本の小杉がいいと推薦してくれたのです」
日本庭園の海外輸出に成功。教育こそが社会の財産、という考えに揺るぎはない。
取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
※この記事は『サライ』本誌2019年2月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。