日本全国には大小1,500の酒蔵があるといわれています。しかも、ひとつの酒蔵で醸(かも)すお酒は種類がいくつもあるので、自分好みの銘柄に巡り会うのは至難のわざです。
そこで、「美味しいお酒のある生活」を提唱し、感動と発見のあるお酒の飲み方を提案している大阪・高槻市の酒販店『白菊屋』店長・藤本一路さんに、各地の蔵元を訪ね歩いて出会った有名無名の日本酒の中から、季節に合ったおすすめの1本を選んでもらいました。
【今宵の一献】大谷酒蔵『鷹勇 純米ひやおろし』
お酒の世界には、その言葉を聞くだけで季節感をほうふつさせるものが多々あります。ドイツの「ボックビール」は、春の歓びを運んでくるビールです。アルコール度数の高い濃淳な味で、毎年3月から5月にかけて出荷されます。同じドイツの「オクトーバーフェスト」といえば、バイエルン州ミュンヘンで行われる世界最大級の秋のビール祭りです。
ワインの世界の秋の風物詩なら、ご存じ、フランスはブルゴーニュのボージョレ地方の新酒「ボージョレ・ヌーボー」。その毎年の解禁日、11月の第三木曜日を、世界のワインファンが待ちわびます。
スイスやドイツでは冬は「グリューワイン」が好んで飲まれます。これは赤ワインをベースにシナモンやクローブ、オレンジピール等の香辛料を加えて温めたホットワインです。また、ノルウェーやスウェーデンなど北欧の国でもスパイスやドライフルーツを入れたホットワイン「グルッグ」が冬のお酒の定番になっています。
日本酒の世界でも「しぼりたて」とか「あらばしり」と聞けば、少し飲みなれてる方なら “そろそろ新酒の季節か”とわかりますよね。近年は、軽快な飲み口に酸を効かせたタイプが主流の「夏酒」も、かなり認知度があがってきています。
そして、忘れてならないのが秋の「ひやおろし」です。「ひやおろし」はどういうお酒なのでしょうか。案外、呼び名は聞いてはいても、あまり詳しくは知らない方が多いかも知れません。概(おおむ)ね、9月から11月の末頃まで売られるお酒で、「冷やおろし」あるいは「冷卸」と書かれることもあります。
今でこそ“新酒の生酒”が全国どこでも愉しめますが、それは冷蔵での流通が発達したおかげです。従来は、お酒が腐敗して傷まないように「火入れ」と称して“加熱処理”を行うのが常道でした。それも、しぼってタンクに貯蔵する前と、瓶詰して出荷する直前の2度にわたって火入れをします。生酒は蔵人もしくはご近所さんしか愉しめないお酒だったのです。
少々ややこしいのですが、同じ「生(なま)」と名がつく日本酒にも「生酒」「生貯蔵酒」「生詰酒」等の違いがあります。
「生酒」は、火入れを一切行わないお酒です。「生貯蔵酒」は、しぼったお酒を生のまま冷蔵しておいて、出荷前の瓶詰のときに火入れを行ったお酒です。「生詰酒」は、タンク貯蔵をする前に火入れを行っておいて、瓶詰の際には火入れをせずに、そのまま出荷するお酒です。
今宵の主役の秋の「ひやおろし」は、このうち「生詰酒」にあたります。まずしぼった段階で一度加熱処理をしてタンクに貯蔵し、蔵内常温のなかでひと夏を越えさせます。その間に、ゆっくりと熟成が進むことで新酒の荒さが消えて、まろやかな旨みが増してゆきます。それをそのまま瓶詰めして、秋口に出荷するのが「ひやおろし」です。
なぜ、「ひやおろし」なのかといえば、今とは違って昔は9月ともなれば、山から涼風が吹きおろして、その風を取り込む構造の蔵内と外気温の差はなくなります。つまりは、お酒を出荷しても品質劣化の心配はない時節です。
その出荷に際して二度目の加熱処理をしないのは、熟成した風味を残すためです。生(冷や)のまま貯蔵用の大桶から出荷用の瓶に移す(おろす)ことから、「冷やおろし」と呼んだもので、昔は、この時期こそがお酒の旬だったのではないでしょうか。
いささか前置きが長くなりましたが、今宵は数ある「ひやおろし」のなかでも、これぞひやおろしといえる味わいのお酒をご紹介します。
鳥取県が誇る山陰の名峰・大山(だいせん)の北東部から日本海にかけて広がる人口1万8000人の琴浦町――その日本海に面した琴浦町浦安に明治5年創業の大谷酒蔵(おおたにしゅぞう)があります。主要銘柄は、古くから辛口にこだわる“男酒”といわれた「鷹勇(たかいさみ)」です。辛口ながら米の旨みがまろやかに広がります。派手さは持たず、いわばいぶし銀の味わいで、そのバランスが絶妙なお酒です。
「鷹勇」の味わいを築いたのは、現代の名工にして黄綬褒章も受賞された元杜氏の坂本俊(さかもと・とし)さん。今は現場を退いていますが、半世紀50年もの間、亡き4代目蔵元の大谷和正さんと共に「鷹勇」を醸し続けてきた方です。ひとつの酒蔵一筋に50年在籍という例はきわめて異例です。
私は、坂本杜氏の現役時代、先代蔵元もお元気な頃に大谷酒蔵へお邪魔したことがありました。その折りは、ふたりの間に揺るぎない信頼関係を見て取り、言葉にする必要さえない酒質への自信に満ち溢れていらしたのをよく憶えています。先代は醸造学科を出ていたにも関わらず、酒造りに関しては一切口出しをせず、すべてを坂本杜氏に委ねていたのです。
現在、蔵を切り盛りするのは先代の奥さまで5代目蔵元を継いだ大谷修子(おおたに・しゅうこ)さん。時代の流行に迎合することなく、決してブレのない、その酒質は“山陰に銘酒あり”として、いまも沢山の「鷹勇」ファンを生み続けています。
昨今は、味の乗り切っていない「ひやおろし」もちらほら見かけます。理由は様々です。他に先駆けていち早く市場に出したいという考えから、なかにはまだ暑い8月に出荷する例もあったりします。良くも悪くも設備の進化によって洗練された酒が増えていること、あるいは貯蔵する際の温度が低い場合もあって、味が乗り切らないこともあるのでしょうか。
もっといえば「ひやおろし」に特有の熟成香よりもフルーティな香味を好む世代が飲み手・造り手ともに増えたことも、その一因かも知れません。熟成香と華やかな吟醸香とは、なかなか相容れないものでもありますから。
その点、大谷酒蔵の『鷹勇 純米ひやおろし』は、しっかりとこなれて角のない、旨みがよく乗った、きわめて良い状態のお酒です。
使用する酒米は「鷹勇」の造りの定石、山田錦と玉栄の組み合わせ。落ち着いたほのかな穀物の香り、舌の上に滑り込んだときの丸みを帯びた穏やかで滋味あふれる米の旨みは、新酒の段階では到底感じられない質のものです。
毎年、たくさんの「ひやおろし」を試飲するなかで、“これこそが「ひやおろし」だ”と、もう幾度唸らされたことでしょうか。
その夏越しの味わいが最も光る飲み方としては、やはり常温から燗がお勧めです。最近は様々なタイプの「ひやおろし」がありますので、冷やして美味しいものもあるでしょうが、概ね、常温以上で、その球体の如く丸みを帯びた、豊かな風味のバランスがとれるように思います。
秋の味覚を代表する、焼いた秋刀魚や沢山のキノコをのせた朴葉焼(ほおばやき)などと合わせて飲めば、正直、その美味さにシビレます。
『鷹勇 純米ひやおろし』をより美味しく味わうための酒肴として、大阪堂島『雪花菜(きらず)』の間瀬達郎さんは何を用意してくださったでしょうか。
珍しく!といっては失礼でしょうか。出された一品は、いかにも和食の料理人らしい王道の「菊かぶら」です。聞けば、間瀬さんは今回のお酒『鷹勇 純米ひやおろし』を“秋の「ひやおろし」の王道”と感じたからこそ、料理もまたあえて王道的なものにしてみたとのことです。
丁寧に包丁で菊の模様を蕪(かぶ)に刻み、反対側のくり貫いたところには秋鮭とキクラゲの卵とじを詰めて蒸しています。菊の花が散りばめられ、そこに松茸を添え、その横に置かれたのは菊の葉の裏に小さく切った葛きりをつけた白扇揚げです。秋鮭を使ったのは、「野菜の旨みだけでは少し弱いので、魚介の風味を入れたかった」のだそうです。
蕪のやわらかい甘みが、とりわけ美味な一品です。秋鮭も控えめながら、じつに良いアクセントになっています。鰹と昆布の優しい出汁が効いた餡(あん)が掛けられ、具も色々入っているのですが、上手くまとまっていて嬉しい限り。少し燗をつけてもらった『鷹勇 純米ひやおろし』を口に含めば、その落ち着いた味わいに、料理全体の質感やボリューム感が溶け合って、思わず知らず笑み崩れるほどに、心が和みます。
中国の易学では陽数のなかでも最高の「9」が重なる9月9日は不老長寿をもたらす縁起の「重陽(ちょうよう)の節句」。その別名は菊の節句です。和食の世界では9月はこぞって料理に菊があしらわれます。お酒の世界には酒杯に菊の花びらを一枚浮かべて飲む「菊酒」の習いもありますね。
さて、お酒の世界には「秋あがり」という表現もあります。夏を越して秋になって旨みが乗って、より美味しくなったお酒を総じて指していう言葉です。その点では、今回触れた「秋のひやおろし」とほぼ同じ意味合いですが、「秋あがり」の表現には生酒も火入れの酒の区別もありません。耳触りがよくイメージもしやすい、とっても前向きで素敵な表現だと思いませんか。私としては、「秋あがり」はもっともっと広がって欲しい言葉だと思っています。
文/藤本一路(ふじもと・いちろ)
酒販店『白菊屋』(大阪高槻市)取締役店長。日本酒・本格焼酎を軸にワインからベルギービールまでを厳選吟味。飲食店にはお酒のメニューのみならず、食材・器・インテリアまでの相談に応じて情報提供を行なっている。
■白菊屋
住所/大阪府高槻市柳川町2-3-2
TEL/072-696-0739
営業時間/9時~20時
定休日/水曜
http://shiragikuya.com/
間瀬達郎(ませ・たつろう)
大阪『堂島雪花菜』店主。高級料亭や東京・銀座の寿司店での修業を経て独立。開店10周年を迎えた『堂島雪花菜』は、自慢の料理と吟味したお酒が愉しめる店として評判が高い。
■堂島雪花菜(どうじまきらず)
住所/大阪市北区堂島3-2-8
TEL/06-6450-0203
営業時間/11時30分~14時、17時30分~22時
定休日/日曜
アクセス/地下鉄四ツ橋線西梅田駅から徒歩約7分
構成/佐藤俊一