蕎麦屋に入ったら、その店の個性や季節の旬を味わえるメニューを注文するのが、的を得た楽しみ方だといえる。
冬の蕎麦を代表するメニューとして人気の高いのが「鴨南ばん」だ。
この蕎麦には、蕎麦店の通常のメニューとは、ちょっと違った個性が備わっている。人気が集中するには、それなりの理由がある。
夏も蕎麦がうまいが、冬もうまい名店として知られる、東京・浅草の『並木藪蕎麦』。この店の「鴨南ばん」を例にとってお話ししよう。
『並木藪蕎麦』を訪れたら、「ざるそば」や「花まき」も、もちろんいいが、冬場はぜひ「鴨南ばん」を注文していただきたい。この時期を逃したら一年待たなければ食べられない季節のメニューである。
『並木藪蕎麦』の先代、堀田平七郎さんは、「鴨南ばん」を、「冬の蕎麦の王座」と評した。それほどに、うまい蕎麦なのだ。
では、なぜ、そんなにうまいのか。
ご存知のように、蕎麦という食べ物は繊細な蕎麦の風味を生かすため、蕎麦つゆの味を抑制している。鰹の香りを抑え、醤油の香りも控え、砂糖のくどさ、味醂(みりん)の主張などといった、蕎麦の風味を邪魔する要素は徹底して排除して作られる。それが名店の蕎麦つゆだ。
この傾向は冷たい蕎麦に添えられる「辛汁」において顕著だが、温かい蕎麦の汁「甘汁」も、基本的な考え方は一緒である。味の偏りを抑え、蕎麦の脇役といった立ち位置から出ることのないように作られている。
ところが、である。
「鴨南ばん」だけは、例外と考えられるのだ。
このメニューは、調理する段階で鴨肉を甘汁で煮て、肉の味が汁に染み出るように作る。よって、客の前に運ばれてきた「鴨南ばん」の汁には、鴨の脂や旨味が煮出されて、それはそれは美味なる甘汁になっているわけだ。
ちなみに、蕎麦好きに人気の「天ぷらそば」も汁の味が楽しみなメニューだ。甘汁の中に入れられた天ぷらは、運ばれてきた段階では汁の熱さに耐え、形を保っている。やがて、天ぷらの衣に汁が染み込むと、ぐずぐずと崩れて汁と一体になり、油、旨味が溶け出した「天ぷらそば」ならではの汁になる。
その点、「鴨南ばん」は最初から汁の中に味が移って美味しい汁になっている。ここが、「天ぷらそば」とは決定的に違うのである。
「鴨南ばん」のようなメニューは、伝統の江戸蕎麦では珍しい。先代の堀田平七郎さんが「冬の蕎麦の王座」と評した所以(ゆえん)である。
「鴨南ばん」を食べるには、何よりも汁の味を堪能していただきたい。夏は「ざるそば」、冬は「鴨南ばん」という常連客は、『並木藪蕎麦』には多い。
■並木藪蕎麦
東京都台東区雷門2-11-9
電話 03-3841-1340
文・写真/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web(http://sobaweb.com)』、及び『そばログ(http://soba-log.com)』編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。サライで撮影と文を担当して記事を制作。16年になる。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)、『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)などがある。