夕刊サライは本誌では読めないプレミアムエッセイを、月~金の毎夕17:00に更新しています。金曜日は「美味・料理」をテーマに、コウケンテツさんが執筆します。
文・写真/コウケンテツ(料理家)
「ごはん食べたか?」
父が僕の顔を見るなり口にするのは、決まってこの言葉でした。両親のルーツである、韓国流の挨拶です。貧しい時代が長かったので、相手の暮らし向きを気に懸ける意味もあります。「食べたよ」っていう返事なら、ちゃんと生活ができているという証。
僕の父は複雑な家庭に育ち、親戚の家を転々とさせられ、いつも飢えた少年時代を過ごしたといいます。高校生のときは、昼ご飯代をかけてサッカーの試合をしていたほど。勝てばやっと、食べられる。そんなことも楽しみに変えながら、なんとか生活していたようです。だから、自分が家庭を持ったら、子どもにはお腹いっぱい食べさせてやりたい。それが、父の切なる願いでした。
やがて父は、済州島出身の母と大阪で出会って結婚。兄がふたり、姉がひとり、そして僕の4人の子どもに恵まれ、6人家族になります。子どもたちに対する両親の教育方針は、とにかく「食」を大切にすることでした。それは、贅沢なものを味わうわけではなく、生きていく上で優先すべきことは、食べることだという考え方。まず、朝食と夕食の時間がしっかり決まっていて、それに準じて1日のスケジュールが立てられたものでした。
子どもの頃の楽しかった思い出といえば、ご飯の時間しかありません。普通なら、家族旅行などが記憶に残っているのかもしれませんが、みんなでどこかに遊びに行ったりもしませんでした。でも、それが寂しいと思ったことは、一度もなかったですね。当時、母はまだ料理家として世に出ていませんでしたが、昔から料理上手。父は母がつくる韓国料理が大好きで、たとえ飲んで帰ってきたとしても、必ず家で食事をしていました。それくらい、何を食べても本当に美味しかった。母の一家は、済州島でも料理上手でよく知られていたそうです。
しかも、普段から我が家の食卓は、家族のほかにもいろんな人で賑わっていました。小さな家だったんですが、母はとにかく人を呼ぶんです。韓国には「食事をシェアする」という文化的な風習があります。誰かが訪ねてきたら、まずご飯を出す。食事の時間でなくても、何時であろうとも! 韓国料理はキムチやナムルといった常備菜が発達していますが、それは作物が採れない冬の備えというだけでなく、いつでも食事が出せるということも大きかったんだと思います。
近所のおじいちゃん、おばあちゃん、身寄りのない人、通りすがりの人。幼かった僕は、家族やいろんな人と毎晩、一緒にご飯を食べていて、まるでうちは小さな公民館みたいでした。でも、その日に学校であった出来事を報告するとみんなが聞いてくれたし、大人たちがその日にあった事件について議論し合うのも聞いていました。だから、早く大きくなって、大人たちの会話に加わりたかった。あとは、辛い料理を早く食べられるようになりたくて(笑)。これも、大人の階段を昇れるかどうかのバロメーターでした。
食事中、父はよく「おかわりしたか?」とも聞いてきましたね。「おかわりしないような男が、世の中に出て何ができるんだ!」というのが、父の考え方だったので。僕にとって食卓は、究極のコミュニケーションの場。「いただきます」から「ごちそうさま」の間に、社会のあらゆること学んだように思います。
文・写真/コウケンテツ(料理家)
1974年、大阪生まれ。母は料理家の李映林。旬の素材を生かした簡単で健康的な料理を提案する。テレビや雑誌、講演会など多方面で活躍中。3人の子どもを持つ父親でもあり、親子の食育、男性の家事・育児参加、食を通じたコミュニケーションを広げる活動にも力を入れている。『李映林、コウ静子、コウケンテツ いつものかぞくごはん』(小学館)、『コウケンテツのおやつめし』シリーズ(クレヨンハウス)など著書多数。