文/山本益博
「グルメ」というフランス語がいまや誰もが「食いしん坊」「料理にうるさい奴」と言った意味で日常的に使われるようになりました。
20年ほどまえにテレビが「料理」「うまいもの」「食いしん坊」に代わる新しい言葉を見つけているうちに、それをすべて含んで便利な、しかもおしゃれなフランス語でしたから、なんでも「グルメ」番組と称してはやらせ、あっという間に流行語になりました。
でも、「グルメ」の本当の意味をご存知の方はあまりいらっしゃいません。本来は、食材や調理に通じた食いしん坊、本当の意味での「食通」のことです。「グルマン」という言葉もあり、こちらも食いしん坊ですが、大食漢の感じでしょうか。美味しいものならいくらでも食べられるという美食家です。同じような意味合いで「ガストロノム」という言葉もあります。この「ガストロ」とは「胃袋」のことで、鋭敏な舌ばかりか強靭な胃袋の持ち主でないと、本当の美食家にはなれないということなんですね。
「山本さんは、グルメでいらっしゃるから」とよく言われます。こういう風に言われるのは「先生」と呼ばれるのと同じくらいに苦手です。いまや「グルメ」は「贅沢な浪費」と同義語に堕ちてしまいましたから、「グルメ」と面と向かって言われると、すこしばかり揶揄(やゆ)されている感じがして嫌なんです。
どうせ呼ばれるのなら「美味しいものに目がないグルメ」ではなく「ものを美味しく食べる食いしん坊」がいいですね。この「美味しいもの」を食べるのではなく、「ものを美味しく食べる」ことこそ「美食」ではないでしょうか。
ところが、巷の「グルメ」たちは、インターネットに満載されている情報を頼りに飲食店を探しだし、その情報を鵜呑みにして店へ出かけ、勝手な料理の注文を並べたて、その料理が出てくると、すぐに箸やナイフ・フォークを手に持って食べ出すと思いきや、携帯電話で写真をカチャ、カチャと撮りはじめる始末。料理を食べて食事を楽しむというより、店へ出かけた証拠写真を撮っている感じなのですね。つまり、自分のブログでお披露目したいための食事で、それも料理を味わうというより、情報を食べていると言ってよいでしょう。そうして、料理人の気持ちも考えず、心ない料理の感想を勝手に書きまくるのです。
「美食」は本来「贅沢な浪費」などではありません。「美食家」はおとなの作法を心得、健やかな生き方を実践している常識人であるはずです。
レストランへ出かけるのにも、店情報を峻別する能力を持ち、他人の評価を一方的に信じるのではなく、作り手の気持ちを汲んでメニューを選び、そうして出てきた料理に素直に向き合う。こういう心持ちで食事を楽しめば、食卓がどんなに盛り上がることでしょう。
私は料理を批評することを仕事にしてしまった人間ですが、料理を前にして一番大切なことは「素直になること」といつも思っています。邪まな気持ちでアラを探そうなどと考えていると、美味しさはするりと逃げていってしまいます。
十代の頃から、料理人の方々から可愛がられてきました。味覚が鋭いわけでもなく、分析能力が高いわけでもなく、もちろん、批評する文章が素晴らしいわけでもありません。すべて二流と思っています。謙遜ではなく、本当にそう思っています。それでも第一線の料理人の方々に食べ手として認めていただいているのは、ひとえに「食べっぷり」がいいからではないでしょうか。
料理は出てきた時点がいちばん美味しい。これを逃してはなりません。その「食べっぷり」はすしやてんぷらのように目の前に料理人がいなくとも、必ず調理場にまで届くものと信じています。これが、「賢い美食」かどうかは分かりませんが、プロフェッショナルの料理を40年間食べ続けてきた私の財産です。
この連載ではそんな私が得てきた「ものを美味しく食べる作法」を、皆さんに少しずつお伝えしていければと考えています。
文/山本益博
料理評論家・落語評論家。1948年、東京生まれ。大学の卒論「桂文楽の世界」がそのまま出版され、評論家としての仕事をスタート。TV「花王名人劇場」(関西テレビ系列)のプロデューサーを務めた後、料理中心の評論活動に入る。
イラスト/石野てん子