鮨でもフグでも、美味しいものは、とことん追求して、その最も美味しい食べ方を極めた北大路魯山人だが、彼は蕎麦も好物だった。
それではさぞかし、蕎麦について詳しかったのだろうと思いきや、意外な言葉を残している。
昭和6年12月、日本料理の歴史に残る名料理店『星岡茶寮』が発行した会誌「星岡」の中で、同店を主催する北大路魯山人が蕎麦について語っている。
曰く、薮を開墾した跡に作ると旨い蕎麦ができる。これを「薮蕎麦」という。
また「砂場」というのは、砂場で出来た蕎麦を売るという看板にほかならない。砂場は紀州で、薮蕎麦は信州だ、とも。
今なら蕎麦好きの人の常識になっていることだが、『砂場蕎麦』が江戸時代から、大坂にあった蕎麦屋の呼び名であることも、同店が江戸蕎麦の源流になったことも、魯山人はまだ知らないようだ。
「薮蕎麦」というのも、薮を開墾した跡地に作った蕎麦という意味ではないはず。昭和6年ころはまだ、北大路魯山人でさえ、蕎麦についての知識は、このようなものだった。
しかしそれも、無理もないことともいえる。蕎麦の歴史を発掘する研究を本格的に行ったのは、蕎麦研究家の新島繁さん(1920〜2001)で、その成果を少しずつ発表し始めたのは、昭和32年ころからのこと。新島さんが研究するまで蕎麦の歴史は、ほとんどかえりみられることはなく、一般に流布している知識は、かなり曖昧なものだった。