蕎麦打ちの楽しみは「ひとを幸福にする贈り物」を自分の手で作るというところにある 【片山虎之介の「蕎麦屋の歩き方」第31回】

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蕎麦粉に手をつけた瞬間から、有無をいわさず「問い」が生まれ、その問いのひとつひとつを確認し、答えながら進めていく。これが蕎麦を打つという行為である。

蕎麦を打つことは楽しい。

なぜ、楽しいのだろうと、考えてみる。蕎麦粉に水を加えて捏ね、麺棒を使って延し、それを包丁で切って、最後に茹でるという、決まり事をこなすだけの作業だ。

しかし、この作業を行うたびに、四方を地平線に囲まれた茫漠たる荒野に、ひとり投げ出されたような、不思議な孤立感を覚える。日常の生活では、あまり体験することのない感覚だ。 

蕎麦粉に水を注ぎ込んだ瞬間から、有無をいわさず「問い」が生まれて、自分自身に突きつけられる。

「すべての粉に水はいき渡っているか」「水は多過ぎないか」「この状態で延したら、途中で裂けることはないか」「麺棒に巻いた生地に緩みはないか」「生地の厚さは均一か」「包丁の送り幅は一定か」など、問いは時計の針が秒を刻むように次々と、休むことなく生まれてくる。

水を含んだ蕎麦粉が指に粘る感覚、麺棒を握った腕を弾き返す反発力、包丁の刃先に当たる生地の厚みなど、体に伝わる感覚が、即座に問いに変わる。

その問いの、ひとつひとつを確認し、ひとつひとつに答えながら進めていくのが、蕎麦を打つという行為だ。誰の助けも借りるわけにはいかない。答えは自分で探すしかない。孤立無援の荒野で、自分の進むべき方向を、自分で選んで足を踏み出すのだ。

その結果、たどり付くのは、一枚のざる蕎麦。

数百の問いに対する答えが、正解だったのか、見当違いだったのか、この蕎麦を一箸たぐれば、真実がわかる。

ああ、そうかと、ある部分では満足し、ある部分では、無念を噛み締める。自分で出した答えの正誤が明確に示され、自分という人間の評価が、一枚の蕎麦に隠しようもなく表れる。良くも悪くも、これが自分なのだと、蕎麦を打つたびに、達観の気持ちが育ち、無意味にあがく執着心が薄れていく。

なんだか、禅の修行でもしているみたいだが、こういう体験を自宅のキッチンで、短時間でできることが、私にとっての蕎麦打ちの魅力だといえるかもしれない。

蕎麦打ちは、人を成長させてくれると、いつまでも大人になりきれない私は、そう思っている。

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男性のみならず若い女性の参加者も増えている『蕎麦Web』主催の「蕎麦のソムリエ講座」。

 

銀座にある長野県のアンテナショッブ「銀座NAGANO」で、蕎麦打ち教室「蕎麦のソムリエ講座」をスタートさせて1年が過ぎた。

この講座には、毎回、多くの方にご参加いただいている。一か月に一度開催する講座だが、すでに3月、4月、5月は予約でいっぱいとなり、6月の受け付けを始めている。

受講生は、東京、関東地方を始め、東北、大阪、兵庫、鳥取など、遠方からも駆け付けてくれる。みんながみんな、私と同じ感覚で、蕎麦打ちに魅力を感じているわけではないということは、会場の雰囲気を見ていると、すぐにわかる。

まるで、お祭りの神社の境内にいるようなのだ。

10代の女性から、70歳、80歳を越えた男性、女性まで、年齢や性別に関係なく、ずっと前から友達であったように親しく会話している。30代の女性が、70歳の女性を「やっちゃん」と呼んでいる。こういう場所が、地球上にあったのかと、正直言って、主催者である自分自身が驚いているのが現実だ。

なぜ、そんなに楽しいのだろうと考えてみると、もうひとつ、答えがみつかつた。

蕎麦は、やはり自分ひとりで食べるために打つものではないのだ。昔から、誰かに御馳走するための、手をかけた贅沢な食べ物であった。そして、今もそれは変わらない。つまり、手をかけて打った蕎麦というものは、大切な仲間や、賓客に食べてもらい、幸せを感じてもらうための食べ物なのだ。

いわば、人を幸福にするための贈り物。それを自分自身の手で生み出して、大切な人を幸せにしてあげられるということが、蕎麦を打つ魅力の大きな柱になっていることに、あらためて気がついた。

しかし、銀座の講座で、笑顔で蕎麦を打っている受講生たちも、蕎麦粉に手をつけた瞬間から、あの道しるべのない荒野に投げ出されているのは間違いないのだ。蕎麦打ちとは、そういうもの。自分で答えを探すしかないものなのだ。

この両方の顔が同時に存在するところが、蕎麦打ちの魅力の奥深さともいえる。

『蕎麦Web』が主催する銀座の「蕎麦のソムリエ講座」。機会があったら、ぜひ一度、この不思議世界を訪ねていただきたい。

『蕎麦Web』はこちら

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