新島繁さんの丁寧な仕事は、当時の蕎麦研究者たちに多大の影響を及ぼし、各地で研究者たちの活動が活発になった。ひとつの例として、大阪の新聞記者であった坂田孝造さんは、伝承でしか伝えられていなかった砂場蕎麦の歴史を古文書などから調べあげ、その成果をまとめた『すなば物語』を昭和59年に著している。これにより『砂場蕎麦』とは、どういう暖簾であるのかが、世に明らかにされたのだ。
新島繁さんを始めとする多くの人々の地道な研究が積み重ねられ、蕎麦の歴史は今のように、人々に深く理解されるようになった。だから昭和6年当時の発言を、現代の尺度で判断するのは、少々、酷であるといえるのかもしれない。
しかし、さすがに希代の天才美食家・魯山人。味については的を射た見識を披露している。
昭和28年に発行された冊子「独歩」の中で、おいしさというものは、その材料の功が9割だといっている。料理人の功は、わずか1割であり、蕎麦の旨さは、蕎麦粉の品質の良さだと言い切っている。
旨い蕎麦を作るためには、旨い蕎麦粉を使うことが絶対条件となる。基本的に蕎麦は、水と蕎麦粉で作るもの。蕎麦粉に本来備わっている持ち味を「殺さず」に「生かす」ことで、旨い蕎麦はできるのだ。
だから、旨い蕎麦の功績は、9割が材料にあり、不味い蕎麦になってしまったら、その全責任は、蕎麦粉の品質を見極めることができなかった目利きの未熟さも含めて、蕎麦粉の味を「殺して」しまった作り手にあるということになる。