蕎麦屋で長尻は禁物。小山さんは、ざる蕎麦を一枚手繰り、早々に椅子から立ち上がった。そのとき向かいの客が軽く頭を下げながら、「相席していただいて、ありがとうございました」と、挨拶したという。
小山さんは、体が震えるほど感動した。
この話を小山さんから聞いて、僕も胸が熱くなった。きちんとした蕎麦屋には、それにふさわしい上客が集うのだ。これが蕎麦屋の品格というものだろう。
『並木薮蕎麦』のスタイルを完成させた先代・堀田平七郎さんは、江戸っ子とは、こういうもの、粋とは、こういうものという定義をきちんと持ち、蕎麦の世界で禅味、俳味を追求した人だった。
本来なら秘伝であるはずの、同店伝統の蕎麦つゆの作り方を一般に公開して、「どんどん真似して欲しい」と言った懐の深い人物だ。だから『並木藪蕎麦』の蕎麦の味には、一本、筋金が通っている。
店の雰囲気を決めるのは、店主の人柄であり、心意気だ。『並木藪蕎麦』は、こういう店だから、「相席していただいて、ありがとうございました」などと、ごく自然に口にできる客が常連になる。できるものなら、こんな客と相席して恥ずかしくない人間になりたいものだ。
蕎麦屋に入る前には、暖簾の前で一度立ち止まり、「果たして自分はこの店に、ふさわしい客なのだろうか」と自問してみるのは、蕎麦屋の作法の初めの一歩といえるのかもしれない。『並木藪蕎麦』の前に立つと、いつも、そんな気持ちにさせられる。
【並木藪蕎麦】
住所/東京都台東区雷門2-11-9
電話/03-3841-1340
営業時間/11:00~19:30
定休日/木曜日
文・写真/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』(http://sobaweb.com/)編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。伝統食文化研究家。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)、『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)、『蕎麦屋の常識・非常識』(朝日新聞出版)などがある。