『翁庵』の「イカ丼」。野菜っけとは無縁の見た目だが、ネギがしっかり入って、イカを引き立てている。

『翁庵』の「イカ丼」。野菜っけとは無縁の見た目だが、ネギがしっかり入って、イカを引き立てている。

文・写真/鈴木隆祐

B級グルメは決してA級の下降線にはない。それはそれで独自の価値あるものだ。酸いも甘いも噛み分けたサライ世代にとって馴染み深い、タフにして美味な大衆の味を「実用グルメ」と再定義し、あらゆる方角から扱っていきたい。

*  *  *

上野界隈といえば、寿司に鰻に天ぷらにとんかつ……と和食の店には事欠かないが、一流店と格安店の差も雲泥で、値段・質とも“中庸”を行く店がなかなかない。

その点で蕎麦は、御徒町の『かめや』、上野駅に面した『つるや』などの安定の老舗、または駅ナカに『いろり庵きらく』といったコスパに優れた数々の立ち食い店が多く、僕などはさっとそれらを手繰る機会が多い。

この界隈でまず老舗といえば、せいろ(蒸籠)をそもそもの発音である “せいろう”と呼ぶ『上野薮そば』となるが、昼でも具入りの蕎麦は1000円以上と値が張るから、酒肴が豊富なこともあるし、「少し贅沢をしたい晩にでも出直そうかな」と店の前で踵を返してしまう。

ただ、時間に少々余裕があり、しかも昼時を微妙に逃した時など、休憩を挿まぬ町の蕎麦屋ほど便利な場所はない。食べ終わってゆっくり茶を啜りながら、置かれた新聞を読んでいても、早く出て行くよう無言の圧力をかけられもしない。ちょうどいい塩梅で、春夏は甲子園の野球中継が、それ以外の季節でも大相撲中継などがテレビで放映され、弛緩した空気をさらに間延びさせてくれる。

そして、そんな蕎麦屋が上野の駅近にもあった。それが今回紹介する『翁庵』である。しかも“上野薮”に遅れること7年、こちらも明治32年創業というから驚くではないか。それにしては、一切の気取りなく、昔の味を満喫させてくれる。

駅から昭和通りを跨ぐ大陸橋を渡って、稲荷町方面に向かう仏壇通りをしばらく行くと、出会すは築70年の古い木造の2階建て。「年季が入った」とはこういう佇まいを言う。

駅から昭和通りを跨ぐ大陸橋を渡って、稲荷町方面に向かう仏壇通りをしばらく行くと、出会すは築70年の古い木造の2階建て。「年季が入った」とはこういう佇まいを言う。

懐かしい町蕎麦の風情が味わえ、味にも妥協のない点、東京でも指折りの名店ではないか。店を入って左手には囲炉裏を配したテーブルがあり、家族客がすっかり寛いでいた。

懐かしい町蕎麦の風情が味わえ、味にも妥協のない点、東京でも指折りの名店ではないか。店を入って左手には囲炉裏を配したテーブルがあり、家族客がすっかり寛いでいた。

おまけにこの店には他にない個性的メニューがある。それがほぼ半数の客がオーダーする「ねぎせいろ」(800円)。文字通り冷たいせいろ蕎麦の脇に、熱々のそばつゆの入った小丼が置かれ、その中には大量の短冊に切った白ネギと、イカ入りのかき揚げがすでに入った一品だ。

このかき揚げをほぐしながらつゆに油を回し、つまりはホロホロとたぬき状になった衣をまといつかせながら、蕎麦をぞぞっといただくのである。

よく締まった細めの麺に醤油のキリッと効いた辛口のつゆを絡めて食べるのは実にオツなもの。そこへ噛めば甘いイカの風味が弾けるかき揚げが、崩れながらも従ってくる。シャキシャキのネギの歯応えも堪らない。流行りのつけ麺はむろん、武蔵野うどんなど熱い汁で食べる冷麺は他にもけっこう想い浮かぶが、熱しやすく冷めやすい江戸っ子気質にぴったしで、あれよあれよと食べ終わってしまう旨さだ。

なんでも翁庵は創業明治17年の神楽坂『翁庵』から暖簾分けされたというが、あちらもトンカツを蕎麦に乗っけたカツ蕎麦で有名なので、変化球好みのDNAは共通するのだろう。僕はそもそも変に蘊蓄の多い、求道的な蕎麦屋が好きではない。蕎麦とは、江戸前とは、こんな風に絶えず変化を求める食べ物なのだろう。

そして、このかき揚げ単体の魅力をより堪能させるのが「イカ丼」(800円)。ただでさえカリッとは揚げていないかき揚げがお重に2片入って、しっかり蓋をされて出てくるから、けっこうぶよぶよだが、そこからして蕎麦屋の天丼だ。蕎麦つゆより辛いくらいの天つゆがしっかりかかっており、小粒で立った固めの炊き具合の米によく染みている。大体において、かき揚げの具材もイカの他はネギだけと潔い。

丼の蓋を開ける前に、汁椀から立ち上る鰹節の香りにまずはノックアウトされた。お新香も実にきちんとしている。これが町蕎麦の醍醐味ではなかろうか。

丼の蓋を開ける前に、汁椀から立ち上る鰹節の香りにまずはノックアウトされた。お新香も実にきちんとしている。これが町蕎麦の醍醐味ではなかろうか。

名物ねぎせいろと同じイカ入りかき揚げが乗って、こちらはイカ丼と称す。細かいことは気にしないのも江戸っ子気質というもの。

名物ねぎせいろと同じイカ入りかき揚げが乗って、こちらはイカ丼と称す。細かいことは気にしないのも江戸っ子気質というもの。

そもそも町の蕎麦屋は店屋物利用が多かったため、丼に蓋をしても熱さを保つことが肝要。そこで蒸される前提で衣も厚めに、むしろふやけても美味な天ぷらを目指しているのである。

天ぷら自体、カラリかモッサリか。がぜん前者を支持する人が圧倒的に多いのではないかとは思う。が、沖縄などに行くと、卵をふんだんに使うからか、衣がいかにも重たく塩味付きで、それ自体を楽しむ感が強い。おかずと言うよりはおやつとして食されているのだが、そこが天ぷらのルーツに忠実な所以でもある。

いわゆる江戸前の天ぷらも同様で、中力粉に卵を入れた衣を胡麻油で揚げ、こんがりキツネ色に仕上がるのが特徴だ。そこが衣に薄力粉を用い、卵は使わないか控えめにし、サラダ油で揚げる関西天ぷらとの決定的な違い。衣に食感だけでなく、それ自体の存在感を求める。だから、東京の天ぷらは天丼にして最強の力を発揮するのだ。

そして、翁庵は丼物に付き物の新香と味噌汁がまた格別だ。最初に味噌汁の椀の蓋を取った際、僕は立ち上る濃厚な鰹の香りにクラクラしてしまった。一口含むと、白味噌主体の信州味噌を使っているのか、しっかりと酸味を感じる。具材の油揚げと白ネギの醸す、これこそが江戸の“おみおつけ”である。「堪らんなぁ」と僕は思わず天を仰いだ。

新香のキャベツの一夜漬けと大根のぬか漬けは自家製。沢庵は市販のようだが、甘みも控えで上等な品を使っている。これらのスッキリした食味がいささか油っこい丼をしっかりサポートしてくれるのだ。

こうして、いささか炭水化物過剰の嫌いはなくもないが、懐かしさも手伝って、ワサワサと箸を動かし、隠れた名物のイカ丼を一気にかき込む。気づけば、周囲には昼から一杯という御仁がいつしか揃い出していた。

そして、前の晩に飲み過ぎて昼酒を回避した僕も、「なに、ちゃんと天丼を食えたではないか」と、ついお新香を追加し、お銚子を頼んでしまうのだった…。

最初に食券を買うシステムだが、忙しい昼時以外、後会計にも応じてくれる。まさに骨董品的な手刷りの券売機と算盤が健在なのが嬉しい。

最初に食券を買うシステムだが、忙しい昼時以外、後会計にも応じてくれる。まさに骨董品的な手刷りの券売機と算盤が健在なのが嬉しい。

【翁庵】
■住所:東京都台東区東上野3-39-8
■アクセス:東京メトロ日比谷線【上野駅】徒歩約2分 JR各線【上野駅】浅草口/広小路口 徒歩約4分 東京メトロ銀座線【稲荷町駅】徒歩6分 京成本線【京成上野駅】徒歩約7分
■営業時間:11:00~20:00(L.O.19:30) 土曜日はやや早く終わる時もあり。
■休業日:日曜日、祝日

文・写真/鈴木隆祐
1966年生まれ。著述家。教育・ビジネスをフィールドに『名門中学 最高の授業』『全国創業者列伝』ほか著書多数。食べ歩きはライフワークで、『東京B級グルメ放浪記』『愛しの街場中華』『東京実用食堂』などの著書がある。

【参考図書】
『東京実用食堂』
(鈴木隆祐・著、本体1300円+税、日本文芸社)
http://www.nihonbungeisha.co.jp/books/pages/ISBN978-4-537-26157-8.html

ISBN978-4-537-26157-8

 

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