『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。
文/藤田達生(三重大学教授)
江差といえば、ニシン漁である。〔平成29年4月28日、江差町が申請していた「江差の五月は江戸にもない―ニシンの繁栄が息づく町―」というタイトルのストーリーが「日本遺産」に認定されました〕と、町のホームページにも紹介されている。北海道では、「日本遺産」指定の第1号だ。
江差は、文学の町でもある。有名な頼山陽(1781~1832)が弘化3年(1848)に、当地の斎藤家を訪れ10か月間、江差の文人たちと交わった。一昨年は、我が三重県出身の松浦武四郎によって北海道と命名されて150年の記念すべき年だった。弘化3年10月に、山陽と武四郎は当地の料亭・雲石楼で「一日百印百詩」の雅会を催している。
さて、 今回は江差町内の巡見である。ここは檜山地域の中心地で、江戸時代以来の和人の足跡が濃厚に残った町で、文化財も多い。
私たちが最初に訪れたのは、市街地から突き出たかもめ島(もと弁天島)である。どこから見ても趣のあるこの島は、ニシン漁と北前船でにぎわった江差にとって記念碑といってよい。ここには「かもめ散歩道」といわれる散策道が整備されており、一周は約2時間である。私たちは、これを歩むことにした。
まず対面したのが、海に建てられた鳥居の奥に鎮座する奇岩・瓶子岩である。今から500年も前、かもめ島で老女折居が翁から小さな瓶を渡され、瓶を海に投げたところ、江差に大量のニシンが来るようになったという。
この瓶が瓶子岩になったと伝えられ、姥は人々から折居様と呼ばれ信仰の対象となっている。この岩こそ、江差発展の聖地でもある。
もうしばらく歩くと、北前船の係留柱を入れる穴や係留環(ロープを通す環)が多数見られる北前船係留跡(町指定文化財)である。かつて私たちが訪れた瀬戸内海の海賊の根城・来島城の海岸部の岩礁でも無数のピット(穴)が見られたが、基本的に同じである。波静かなかもめ島の内海に、多くの北前船が集ったのである。
それからは上り道にさしかかる。真っ平らな千畳敷を下にながめつつ、島の山頂をめざした。千畳敷では、かつて北前船で巨万の富を築いた地元商人が、豪華な花見の宴を催したという。その様子は、1750年代の江差の繁栄が描かれている「江差屏風」のなかに見つけることができる。私たちは、朱の鮮やかな社殿が映える厳島神社を詣で、山頂部に到達した。
山頂部には、純白の美しい灯台があり、広く見晴らしがよい。キャンプ場も整備されている。ここには、海に向かうように江差追分記念碑が建てられていた。有名な江差追分であるが、石碑への揮毫は北海道長官・佐上信一(1882~1943年)の手によるものである。1931年に長官に就任した佐上は、北海道の繁栄に尽力した政治家であったが、昭和初期の頃から江差追分が全国に広まったという。
暴風雨の江差沖に沈没した開陽丸
ここから、下山して江差港マリーナに係留されている開陽丸に向かった。もちろん本物ではなく、平成2年4月に復元された史料館・開陽丸記念館のことである。開陽丸とは、幕府が発注したオランダで建造され慶応3年(1867)3月に横浜へ入港した最新鋭艦だった。
木造船ではあったが、ライフルを切った最新のクルップ施条砲18門が備えられ、蒸気機関のみでの巡航速度18マイル、クルップ砲の海上試射距離3900メートルなど、当時の日本にあっては、ずば抜けた戦闘能力を誇った。
しかし、わずか1年8か月後の明治元年(1868)11月15日に、暴風雨の江差沖において座礁し沈没した。総司令官榎本武揚が、下船して江差を征圧している間に起きた痛恨事だった。開陽丸がこのようなことにならなければ、江戸幕府の残党で結成された榎本武揚らの北海道政権・蝦夷共和国も、無残な敗退を喫することはなかったのかもしれない。
開陽丸の沈没地点がわかっていたため、昭和50年には江差町教育委員会によって、世界初となる水中・産業考古学の対象として発掘・調査プロジェクトが発足した。復元された船中には、引き揚げられた食器などのモノ資料から古文書までが所狭しと展示されているが、遺留品は総数3万点以上にものぼるという。外には、大砲やスクリューシャフトなども展示してあり壮観である。
江差追分の調べが心に染みる
江差の町のメインストリートは、「江差いにしえ街道」と名付けられて平成16年に街路事業が完成した。次に私たちが向かったのは、この美しいメインストリートに面して鎮座する姥神(うばがみ)大神宮である。
毎年、8月9日から11日にかけて行なわれる当社の渡御祭では、神社前の街路に山車と観光客で溢れかえるらしい。ここは、先述した折居伝承にもとづく神社である。境内には、折居様を祀る折居社も勧請されている。姥神大神宮は、北海道最古の神社とされ、渡島国の一宮とも称されている。
ここから、郷土資料館となっている旧檜山爾志郡役所に向かった。明治20年に建てられ、北海道の有形民俗文化財に指定されている洋館である。編集のIさんは、土方歳三が郡役所前の地点から沈没する開陽丸を見て嘆息した故事に思いを馳せておられた。続いて向かったのは、国の重要文化財・旧中村家である。
美しい大型建物は、江戸時代に海産物の仲買商を営んでいた近江商人の大橋右兵衛が建てたものだ。奥に長く繋がる作りではあるが、「主屋」「文庫倉」「下ノ倉」「ハネダシ」という4棟が表から奥に一列にならんでいる。一番奥で海に近い作業部屋であるハネダシで、ニシンの加工がおこなわれていた。往時の写真や道具が展示されている。
最後に向かったのは、江差山車会館である。ここは、江差追分会館と一体になっている。館内に入ると、姥神大神宮の神輿3台に供奉する13台の山車(ヤマ)についてパネルで解説され、山車の中から2台を1年交代で常設展示している。
豪華で勇壮な山車が年中見られるというのは、大変ありがたかった。大型スクリーンでは、祭礼の様子が映し出されており、人形や装飾品で飾られている山車が、祭囃子の調べにのって各町内を巡行するシーンが映し出されている。
お隣の江差追分会館では、実に楽しかった。いきなり名人たちの喉が披露された。ここでは、4月から10月までの毎日、江差追分をはじめ江差に伝わる数多くの郷土芸能を実演している。畳敷き桟敷席はなんと約百畳もあり、舞台の両側には歴代の江差追分全国大会優勝者の写真も飾ってある。
有名な江差追分節は、江戸時代から信州中仙道で唄われた馬子唄がルーツだという。それが越後に伝わり船歌として船頭たちに唄われるようになって、今から200年ほど前に北前船によって当地に伝わりアレンジされたらしい。このように、北前船は人や物ばかりか、庶民文化を運んできたのだ。
それにしても、充実した渡島半島の旅だった。もっとも印象に残ったのが、北海道の開発過程である。江戸時代前期までは実質的に渡島半島だったのであるが、200年を経た幕末には、松浦武四郎らの度重なる探検や幕府の北方政策によって、樺太までの情報が入るようになった。
明治時代に蝦夷地は北海道と名づけられ、様々な藩関係者が、恩賞の地として、あるいは流刑地として各地に入植した。その後は、ゴールドラッシュやニシン漁で沸き返ったが、それも長くは続かなかった。稲作を導入し安定した沃土にするべく、厳しい自然と戦いに1世紀以上の時を要したのである。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。
※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」を書籍化。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
(安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442