文/砂原浩太朗(小説家)
額田王(ぬかたのおおきみ)の名は、「万葉集」随一の女流歌人として、ひろく知られている。有名な「あかねさす……」という歌とともに、天智・天武の両天皇に愛された女性としてご記憶の方も多いだろう。ところが、これほど著名な存在でありながら、歴史上、その人生について明らかとなっていることは、ほとんどない。それでいて、何冊もの小説や伝記が書き継がれている稀有な人物なのである。額田王とは、いったい何者なのか。
たしかな史実は、「日本書紀」の一文のみ
額田王について信のおける史実は、「日本書紀」にある次の一文しかない。「(天武)天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶りて、十市皇女を生む」(天皇は初め鏡王の娘額田姫王を娶って、十市皇女を生んだ。以下、読み下しと訳は、小学館『新編日本古典文学全集』による)。じつは額田王の痕跡をたどる手がかりは、この一文と万葉集に収録された十二首の長歌・短歌のみである。もちろん生没年も不明であり、父・鏡王(かがみのおおきみ)がどういう人物なのかも、まったく分かっていない。ただ、「王」という以上、天皇家の血を引く身であることは間違いないだろう。また、額田の生年だが、西暦630年を中心とする前後10年くらいの間と考えられている。これは、孫にあたる葛野(かどの)王の年齢から逆算したものだが、額田もその娘・十市皇女(とおちのひめみこ)も20歳前後で出産したという推定だから、むろん正確とはほど遠い。が、的はずれと言うわけでもないだろう。本稿では、大化の改新(645)時点で数え15歳となる631年生説(直木孝次郎氏)のイメージでお読みいただければと思う。
女帝の側近として
天皇家の血を引くとはいえ、父も「皇子」(天皇の子)と記されてはいないから、額田の身分はそれほど高くなかったと思われる。おそらく10代の早い時期に女官として宮中に出仕したのだろう。そこで大海人(おおあま)皇子と呼ばれていた後の天武天皇と出会い、結ばれる。大海人の生年は不明だが、通説では本稿の額田より1歳上(630年生)となる。額田の代表歌である「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」(熟田津で船出しようとして月の出を待っていると 潮も幸い満ちて来た さあ漕ぎ出そうよ。熟田津は現・愛媛県の港)は、斉明天皇(594~661。天智・天武の母)の代作として詠んだものとされている。女帝の側にあって、おおいにその詩才を愛でられていたのだろう。母の寵愛を受ける女官と息子のひとりが結ばれるのは、ありそうなことである。さきに引用した「(天武)天皇、初め……」という一文からしても、額田は大海人にとって最初の妻だったと考えていい。
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