※この記事はサライ2006年8月号の特集「『万葉集』を旅する」より転載しました。写真やデータは掲載当時のものです。(取材・文/出井邦子 撮影/牧野貞之)
「万葉集を楽しむなら文献を離れ、万葉の風と光の現場に立ちましょう。そして万葉人が見たように山や川を、空や雲を眺めましょう」という中西進さんの案内で、飛鳥~吉野~阿騎野を巡った。
人麻呂、皇位継承を高らかに歌う
飛鳥から東、伊勢の方に道を辿たどると阿騎野(あきの)に着く。今なら車で30分ほどの距離だが、飛鳥を朝立って、泊瀬(初瀬)の山々を押し分けて夕方着くと柿本人麻呂は述べており、当時は一日を要する旅。阿騎野は山と谷が連続し、猟の獲物の豊富な土地だったようだ。
阿騎(あき)の野に 宿る旅人 打ち靡(なび)き
眠(い)も寝(ぬ)らめやも 古(いにしへ)思ふにま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみちば)の
過ぎにし君が 形見(かたみ)とそ来(こ)し東(ひむがし)の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて
かへり見すれば 月傾(かたぶ)きぬ日並(ひなみしの) 皇子(みこ)の命(みこと)の 馬並(な)めて
御猟(みかり)立たしし 時は来向かふ柿本人麻呂(巻一・四六~四九)
上の一連の短歌は、軽皇子10歳の時、阿騎野で行なった猟に際し、人麻呂が献じたものと考えられる。
軽皇子は早逝した草壁皇子(日並皇子、天武・持統両天皇の子)の忘れ形見。阿騎野は草壁皇子がかつて遊猟した地であり、軽皇子の行幸には、亡き父を追慕する目的があった。
1首目の〈古(いにしへ)〉、2首目の〈黄葉(もみちば)〉以下からも、そのことが読み取れよう。
「3首目が特に有名ですが、これは『万葉集』の中でも傑出した作品です。〈炎(かぎろひ)〉は普通、陽炎を指し、春の歌に思われますが、実は冬の歌。冬の曙光を、人麻呂はかぎろひと詠んだのですね。そして野を染める曙光と、傾く月を対比させている。つまり、昇る太陽に即位を決意した軽皇子、西に傾く月に亡くなった父・草壁皇子を重ねているのです。見事な歌で、人麻呂の凄さが表れています」と、中西さんはいう。
軽皇子は後に即位し、文武天皇となる。単なる日と月の関係を詠んだ歌ではなく、皇位継承の物語が秘められている。人の生と死、命の循環を歌に託した万葉人の心を思わずにはいられない。
蕪村もこの歌を下敷きに
〈炎〉の歌に、与謝蕪村の俳句〈菜の花や月は東に日は西に〉を思い浮かべる人も多かろう。
「蕪村がこの句を詠んだ時には、人麻呂の歌が念頭にあったはず。つまり、蕪村は人麻呂の歌を承うけて、この句を詠んでいるのです。そう考えれば、日本文学は巨大な連句といえるでしょう」
千年の時を超えて教養が共有される。これは他国に例のない、日本の文化遺産だと中西さんはいう。