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「正月蕎麦の伝統」でちょっと触れた、新潟県妙高山麓の幻の蕎麦切り寺「宝蔵院」の本尊は、絶対秘仏であり、長い間、一般の人々の目に触れることはなかった。それが今回、特別の計らいで、片山が写真を撮らせていただくことになった。この撮影が終わった後は、再び秘仏として封印され、二度と撮影を許可することはないということだ。

妙高市に残る記録によると、この仏像は昭和36年に文化庁の依頼で、関係者が調査したことがあった。人の目に触れないよう、厳重に釘を打たれた古い木箱を前にして、誰もがそれを開けることをためらった。そのため当時の国立文化財研究所所長であった田中一松氏が箱を開いた。中の仏像を一目見て、即座に「新羅(しらぎ)仏」であると鑑定したという。

新羅仏とは、朝鮮半島の新羅から渡来した仏像のこと。その後、鉛の同位対比の分析を含む綿密な調査が行われ、この仏像は飛鳥時代、六世紀ごろに、朝鮮半島の百済から渡来し、大和、信濃を経て、この地にもたらされた可能性が高いことが明らかにされた。日本で仏像が鋳造され始めたのは六世紀末からだが、それより古い時代に渡来したとされる、歴史的にも貴重な仏像である。

この百済仏を本尊と祀る宝蔵院の寺領に、蕎麦の食文化が花開いた。蕎麦は、この百済仏の信仰を下支えする重要な役割を担ったのだ。

百済仏が渡来した飛鳥時代、都は現在の奈良県高市郡明日香村付近にあった。なぜ、そのように貴重な仏像が、都から遠く離れた妙高山麓に祀られたのだろうか。

当時、妙高山麓付近は、本州東部以北に居住していた北方の人々、蝦夷と対峙する最前線となる地域だった。奈良から見れば、まさに辺境の地。これより北は朝廷の威光の及ばない土地となる。そこで朝廷は、仏教を通して、蝦夷の人々を懐柔、支配するために、この地に貴重な仏像を安置したのではないかと推測されている。

蕎麦がいつ頃からわが国で栽培され始めたのか、まだ定説はない。しかし、妙高山にほど近い野尻湖の湖底からは、約1500年前のソバの花粉が大量に発見されている。百済仏が都からもたらされた時代、この地でソバはすでに栽培されていたと考えられている。

宝蔵院の日々の出来事を仔細に綴った、これも極めて貴重な記録「宝蔵院日記」と呼ばれる古文書がある。正徳2年(1712)から慶応4年(1868)まで150年以上にわたり、寺で執り行われた宗教行事を始めとして、政治、経済、民族、交通、気象、災害、食文化などを詳細に記録したものだ。この時代の、これだけ長期間にわたる綿密な記録は極めて珍しく、歴史的資料としても重要な文書だ。

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