現在、この日記の解読が進められ、ようやく日の目をみる段階にこぎつけた。宝蔵院日記に記された蕎麦に関する記録をいくつか拾ってみよう。
正徳3年(1713)、正月4日より14日まで、庄屋組頭問屋が、蕎麦粉を持参して寺に挨拶に訪れている。
安永7年(1778)の5月3日には、御前見舞いに、蕎麦切り差し上げるの文字が見える。
安永10年には、蕎麦栽培の種まきをした日程から、刈り入れ、脱穀、新蕎麦を食べたことまで記録されている。
天明3年(1783)の4月8日には、紫津村(現在の長野県上水内郡信濃町)の清水伴助の家から、酒を一樽と「寒ざらし蕎麦」を一袋、贈られたとある。寒ざらし蕎麦は、この地方で厳寒期に、ソバの実を寒さにさらして作る贅沢な蕎麦で、酒とともにそれを贈ったという記録からも、蕎麦がこの上ない御馳走として位置づけられていたことがわかる。
寒ざらし蕎麦は、信州の高遠藩などから江戸幕府に献上されていた貴重な蕎麦。宝蔵院でもそれを食していたのだろう。寺領の蕎麦食文化が、いかに洗練されたものであったかが、この一文からも読み取れる。今後、研究が進められるにしたがい、妙高山麓の食文化の歴史が、さらに詳しく解明されることだろう。
少々、かたい話になってしまったが、蕎麦の食文化、その歴史に興味をお持ちの方々にとっては、見逃すことのできない関心事であると思う。
絶対秘仏の百済仏を撮影した様子については、またこの連載の中で報告したいと思う。興味のある方は、楽しみに、お待ちいただきたい。
文・写真/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)などがある。