茶漬けを「掻き込む」といえば、茶碗を口に付けたまま、箸でザッザッと食べる姿を思い浮かべる。鮨を口に「放り込む」といえば、いかにも気風のいい、江戸っ子の食べ方を連想する。林檎は「齧りつく」とも言うし、飯を急ぎ「認める(したためる)」などの古風な言い方もある。同じ食べる仕草でも、その食物によって言い方は様々だ。
蕎麦は、手繰る、すする、喉ごしで味わうなど、いろいろな言い方をされるが、では「手繰る蕎麦」と「すする蕎麦」は、いったいどう違うのだろう。
本などの記事を書く仕事をしていると、蕎麦の食べ方の表現として、「手繰る」と書くのか、あるいは「すする」にするのか、編集者との間で意見が別れることがある。僕は、そういうとき、「すするは、やめましょう」と進言する。「手繰るか、それがだめなら食べるとか、食すにしましょう」と。
書いて人にものを伝える仕事では、どういう表現をするのかは、時には口角泡を飛ばして議論するような、大問題となることがあるのだ。
「蕎麦は噛むもんじゃない。喉ごしで味わうものさ」などと言う人がいるが、噛まずに呑める蕎麦は、細いことが条件となる。山形などで有名な、鉛筆のように太い蕎麦は、どう頑張っても、噛まずに呑む込むことはできないだろう。場合によっては、噛んでもなかなか飲み込めなかったりする。
江戸にも、伝統の太い蕎麦がある。『神田まつや』に見られる「太打ち」。割り箸ほどの太さがあり、これも噛まないで喉ごしを楽しむというわけにはいかない。しっかり噛んで味わう蕎麦だ。
こういう蕎麦は、手繰ることも、すすることも難しい。
「すする」という言葉を広辞苑でひいてみると、「液状のものを口に少しずつ吸い込む」とある。蕎麦の場合は、いくら細くても固形物なので、「すする」が適切かどうか疑問が残る。そして広辞苑にもうひとつ、「すする」の意味として紹介されているのが「鼻汁を吸い込む」という例だ。食べ方の表現として、どうもあまり美しくない。
それでも温かい蕎麦を食べる場合は、甘汁とともに蕎麦を吸い込む食べ方もするので、こういう場合は「すする」と表現しても間違いではないだろう。そんなときは、僕も「すする」と書くことがある。