文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「私は、友が無くては、耐えられぬのです。しかし、私にはありません。この貧しい詩を、これを読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください」--八木重吉
大正15年(1926)春、詩人の草野心平は、千葉県東葛飾郡千代田村柏(現・柏市)に、ひとりの青年教師の家を訪ねた。その夜一泊して歓談した草野は、青年がキリスト教信者であること、新聞の新刊紹介欄を切り抜いてノートに貼っていることを知った。
青年の傍らには、小柄で可愛らしい奥さんと、まんまるい小さな子供がふたりいた。部屋の片隅には、サイダーの壜に椿の花が一輪挿しにして飾ってあり、つましくも温かな暮らしぶりが窺えた。が、それと対照的に、青年の顔に深い寂寥の翳がさしているのが、草野の胸に刻まれた。この青年教師こそ、詩人・八木重吉であった。
八木重吉は明治31年(1898)、東京府南多摩郡堺村(現・東京都町田市)の生まれ。代々農業を営んできた八木家は、田畑2町歩、山林20町歩を持つ地主で、村の中ではそこそこ資産家の部類だったという。
次男坊の八木は、鎌倉師範学校から東京高等師範学校へ進学。同校卒業後の大正10年(1921)、23歳で兵庫県御影師範学校の英語科教諭となった。詩作をはじめたのも、この頃からだった。
柏の東葛飾中学校へ転任後の大正14年(1925)8月、親戚で作家の加藤武雄の紹介で、処女詩集『秋の瞳』を上梓する。これをきっかけにして、佐藤惣之介や草野心平といった詩人たちとの交流が芽生えていく。
一見、心に浮かびくるままを質朴に歌ったかのように見える詩文の底に、八木は深い悲哀を織り込んでいた。その悲哀は、現実生活のわびしさからくるものというより、この世に生まれ落ちた人間としての原罪を凝視し、詩と信仰を突きつめた果ての、実存の悲しみであっただろう。
処女詩集の序文で読者に語りかけた掲出のことばにも、同質の悲しみの匂いがする。
己に厳しい修養でも課す如く、八木はその後も盛んに詩を紡ぎつづける。純粋無垢で清らかな童心に、八木はあこがれのような気持ちを抱いていたらしく、こんなことも語っていた。
「私は自分の究極においては子どものような詩を望んでいる。だがそれは50をこしてからのことであろう」
けれども、八木重吉に残された時間は余りに短かった。処女詩集刊行から2年後の昭和2年(1927)、愛した秋の、美しい朝焼けの日に、満29歳の若さで昇天した。死因は肺結核。あとには、妻とふたりの子(4歳の女の子と3歳の男の子)が残された。
このふたりの子も、悲しいことに、父と同じ病のため、10代半ばで早世している。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。