文・写真/かくまつとむ
池波正太郎の『鬼平犯科帳』には、猪牙舟(ちょきぶね)という小舟がよく出てきます。当時、江戸市中は網の目のような水路でつながっていましたが、それは物資を効率よく運ぶためでした。
人の移動にも舟は便利で、猪牙舟は今のタクシーのような存在だったと言います。吉原へ繰り出すときも「ちょいと舟で」という人が多かったとか。
水運というと、今ではタンカーのような巨大運搬船がイメージされますが、鉄道網が全国に広がる明治時代まで、日本の輸送の柱は船でした。北前船のような大きな廻船だけでなく、河口の港と内陸とを結ぶ川舟も無数にありました。低湿地の稲作や洪水の常襲地域でも欠かすことがでせず、かつては納屋に小舟を吊るしている農家もあったものです。
現在の船はFRP(ガラス樹脂)製ばかりですが、ごくわずかに木造船を作る職人がいます。船大工と呼ばれる人たちです。
木の船は、複数の杉板を曲げながら、船釘(ふなくぎ)という金具を斜め横から打ち込み、板と板を接合していきます。はぎ合わせという作業です。船釘と呼ばれていますが、その金具は扁平四角錐でそれなりに大きなため、薄い板にいきなり打ち込むと割れてしまいます。そこで欠かせないのが、事前にガイド穴を開けておく鍔鑿(つばのみ)という刃物です。
つい刃物と書いてしまいましたが、じつはちょっと分類の難しい道具です。鑿(のみ)という名前で呼ばれているものの、柱のほぞ穴を刻む大工鑿とは構造も使い方も違います。鋭利な刃はついておらず、木は切削できません。刺さった穴が開くだけです。根元の鍔は、板にがっしり食いこんだ先端を逆から叩いて抜くためにあります。
鍔鑿はわずかに湾曲しています。開けた小穴から船釘を打ち込むと、最初は斜めに入るものの、内部では板の向きと平行になって隣の板の中心部にしっかり固定されます。
以前お会いした老職人は「自分たちは船大工と呼ばれているが、木造船を作る感覚は、どちらかといえば服の仕立てに近い」とおっしゃっていました。
木の船は板を火で曲げながら組んでいくので、パーツの図面は衣服と同じ展開図になります。板は布地。船釘はいわば縫い糸で、船釘を通すための鍔鑿は縫い針というわけです。面白い見方だなと思いました。
今後、木造船に乗る機会がありましたら、ぜひ、そんな視点でも旅を楽しんでいただけたらと思います。
※文中写真は、紀伊半島の熊野川で、速玉大社の御船祭に欠かせない早船を作っている谷上嘉一さんの仕事場です。
文・写真/かくまつとむ
かくまつとむ(鹿熊勤) 自然や余暇、一次産業、ものづくりなどの分野で取材を続けるライター。趣味は日本の刃物文化の調査、釣りと家庭菜園&酒。『サライ』には創刊号から参画。著書に『鍛冶屋の教え』(小学館)、『日本鍛冶紀行』(ワールドフォトプレス)、『糧は野に在り』(農山漁村文化協会)など。立教大学兼任講師。