今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「誰れでもかまわない人間をなめ殺しに」
--草野心平
詩人の草野心平は、蛙を題材とした詩を多く書いた。そこでは、作者が蛙と一体化しているようでもあり、蛙の目を通して世界を眺めているようでもあった。
具体的に、詩集『第百階級』の中に書かれた物語を追ってみてみよう。現代日本の蛙は、恋や寂しさを語るかと思うと、子供らに追いかけられる。18世紀イタリアの蛙はボローニャで生理学者の解剖の対象となり、ベトナム戦争下のソンミ村の蛙は戦争に巻き込まれ半死人の下敷きとなる。そしてついには、ある日、目を開いたヒキガエルが竹藪の中を歩きだし、「何処へ?」という問いかけに、掲出のことばで答えるのである。一見、とぼけた味わいの底に、身震いするような恐ろしさも感じられる。
草野心平は明治36年(1903)、福島県上小川村(現・いわき市小川町)の生まれ。旧家の次男坊で、少年期はやたらと人に噛みつき、教科書まで食いちぎるようなヤンチャ坊主だった。
小学校卒業を前に、兄と母、姉を相継いで亡くし、16歳で中学を中退し上京。慶応義塾普通部を経て、中国広東省の嶺南大学に留学した。米国系ミッションスクールである同校で、心平は英米人の教授と中国人学生にまじる唯一の日本人。そんな環境下、独得の、時に茫洋とも映る巨きな宇宙観が養われていく。亡兄の遺した詩作ノートに刺激を受け、自身で詩を書きはじめたのもこの頃だった。
ガリ版刷りの処女詩集『廃園の喇叭』を世に出すのは大正12年(1923)、20歳の頃。初の活版印刷による詩集『第百階級』の刊行は、それより5年後の昭和3年(1928)。発行部数は100 部で、そのうちまともに売れたのは3部だけだったという。
生活のため、心平は種々の仕事をした。屋台の焼鳥屋をやったり貸本屋を開いたり、新聞社や出版社にも勤めた。農業にも取り組んだ。その際、頼りにしたのは詩人仲間の宮沢賢治。花巻農学校の教師をつとめ、自身でも畑を耕し肥料研究などもしていた賢治に、心平は手紙で指導を仰いだのだ。あるときは米びつが空となり、賢治に「コメ一ピョウタノム」という電報を打ったこともあった。
そんな赤貧生活をくぐりながら、心平には孤独や哀しみも包み込んでしまう向日性があった。そして、詩人として、擬音や句点、記号までを駆使した斬新な表現手法で、人も天地も小動物も、まるごと受けとめ愛するような、大きな共生共死の感覚があふれる作品を紡いでいく。生涯で書き残した詩は1400篇余りに及んだという。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。