今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「名寄岩ァ……に勝った、綾昇ィ……」
--19代目式守伊之助

明治の初年に一度、土俵にあがる相撲取りもシャツを着るよう規則が定められたという話がある。

新しい時代を迎え、これからは、外国の人たちも相撲見物をするだろう。その際、日本人が裸で肌を見せるというのは失礼だから、何か着た方がいいだろう。そんなことから生まれた規則だったらしい。特別あつらえの大きな上下のシャツを着て、その上からまわしを締めたが、もみ合っているうちにびりびりに破けたりしてどうにもならず、すぐに元に戻されたとか。

落語家の故6代目三遊亭圓生が、あるときの高座のマクラの中で、この逸話を紹介している(三遊亭圓生『噺のまくら』より)。

6代目三遊亭圓生は、非常に勉強熱心な人で、落語の噺の中に登場する地名や人名、歴史的背景についても綿密な研究や実地踏査を重ね、それまでなんとなく口伝えに伝えられてきたものの誤りを改めたこともあったというから、これも史実にもとづく逸話だったのだろう。

上に掲げたのは、同じマクラの中で圓生が紹介している、大相撲の立行司19代目式守伊之助が本場所の土俵上で口にしたという勝ち名乗りである。

19代目式守伊之助は明治19年(1886)生まれ。明治33年(1900)5月に初土俵で、72歳まで現役で土俵に立った。長く白い髭がトレードマークで「髭の伊之助」とも呼ばれた。相撲好きの夏目漱石は、明治から大正にかけて何度も相撲見物に出かけているから、若き日のこの人の行司姿も、目にしているだろう。

さて、掲出の勝ち名乗りの話。当時、名寄岩は強く、両者の対戦はたいていが名寄岩の勝ち。それが伊之助の頭の中にあった。この日は珍しく綾昇の方が勝って、たわらのところでしゃがんで勝ち名乗りを待っている。その前に行った伊之助の口を、うっかりついて出たのが、「名寄岩ァ……」ということば。

びっくりした綾昇が伊之助の顔を見上げる。伊之助もここで、「あっ、いけねえ、間違えた」と気がついたが、すでにはっきりと名寄岩の名前を口にしてしまっているから、取り消しようもない。仕方がないから、咄嗟に機転をきかせ、「に勝った、綾昇ィ……」とつづけたという。

圓生師匠のこのマクラには、こんなサゲがつく。

「あんなに長い勝ち名乗りてえのははじめてでございましょう」

先入観を持つことの危うさと、危機に臨んで機知を働かせることの妙味を読み取る、などと堅苦しい意味づけをするより、ここは単に面白がっていればいい。人間誰しも失敗はあるけど、まあ、なんとか切り抜けましょうよ。

(この椿事は、名寄岩・綾昇戦でなく玉ノ海・鏡里戦での出来事とする説もあるが、ここは前記『噺のまくら』の記述によった)

5月場所の取り組みも、今日を含めいよいよ残りあと2日。優勝争いをめぐる、勝ち名乗りの行方が気になるところ。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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