「あれ? なんて漢字だったっけ」と悩むことが多くなっていませんか? 少しだけ思い出す努⼒をしてみるものの、結局は「まあ、いいか」と諦めることもあったりして、記憶の衰えを実感することもあるのではないでしょうか? しかし、思い出すことが記憶⼒の鍛錬につながると言われています。
「脳トレ漢字」第198回は、「塔頭」をご紹介します。禅宗の寺院の一部である塔頭。室町時代に盛んに作られたそうです。実際に読み書きなどをしていただき、漢字への造詣を深めてみてください。
「塔頭」とは何とよむ?
「塔頭」の読み方をご存知でしょうか? 「とうとう」ではなく……
正解は……
「たっちゅう」です。
『小学館デジタル大辞泉』では、「禅宗で、大寺の高僧の死後、弟子がその徳を慕って墓の塔の頭に構えた寮舎。」と説明されています。塔頭は、大寺院の中にある子院のことで、塔の中で首座にあることからその名がついたと考えられています。
大寺院の高僧が隠退した際に、寺の周辺や境内に小院を建て、住居にしたそうです。高僧の没後も、門下の人々がこの小院を守ったことが、塔頭の起源であるとされています。また、「塔」は墓を意味し、「塔中」と呼ばれることもあります。
「塔頭」の漢字の由来は?
先述の通り、「塔頭」は首座にある塔という意味が、名前の由来であると考えられています。また、高僧の墓である塔の頭(ほとり)に構えられたことから、「塔頭」と呼ばれるようになったと言われることもあるそうです。
大徳寺の歴史
塔頭は、室町時代に五山(臨済宗の寺院の寺格)の間で盛んに作られたそうです。五山に列せられていた寺院には、京都市北区に位置する大徳寺も含まれます。大徳寺といえば、一休宗純が住持を務めたことでよく知られていますが、数多くの塔頭が現存している寺院でもあるのです。
鎌倉時代末期、武将・赤松則村(あかまつ・のりむら)の帰依を受けて創設された大徳寺。元弘3年(1333)、後醍醐(ごだいご)天皇からの厚い帰依を受け、五山に列せられることとなりました。しかし、室町時代に入ると、3代将軍・足利義満が、大徳寺と対立していた夢窓疎石(むそう・そせき)の宗派を支持します。
そのため、大徳寺の地位は落ちてしまい、自ら五山派を離れることとなったのです。大徳寺は、将軍家と癒着していた五山派を鋭く批判し、座禅に徹する独自の立場を作り上げました。この時に住持となって、大徳寺禅を堺の町に広めたのが、「一休さん」で知られる一休宗純です。
一休の布教活動は功を奏し、「応仁の乱」で炎上した大徳寺の伽藍は、堺の豪商たちや織田信長などの有力武将によって再興されました。また、侘茶(わびちゃ)の祖・村田珠光(むらた・じゅこう)が一休に参禅したことから、大徳寺は茶人からも支持されるようになったのです。
その後、大名たちの間で数寄(すき、茶道や生け花などの芸道)が流行したこともあり、茶道にゆかりのある大徳寺はさらなる支持を集めます。大名たちは、次々と大徳寺の塔頭を建て、江戸時代には56院もの塔頭が作られていたそうです。
大名からの厚い帰依により、隆盛を極めた大徳寺。しかし、明治時代に入ると、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、仏教の排斥運動)が盛んになったことで、塔頭は取り壊されてしまいました。それでも、24院の塔頭が現存しており、大徳寺は現在でも重要文化財の宝庫として注目を集めています。
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いかがでしたか? 今回の「塔頭」のご紹介は、皆さまの漢字知識を広げるのに少しはお役に立てたでしょうか? 現存する大徳寺の塔頭の中には、世界的に評価されている国宝や庭園などが数多くあります。一般公開されている塔頭もあるため、長期休暇を利用して訪れてみるのも良いですね。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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