はじめに-三条天皇(居貞親王)とはどのような人物だったのか
居貞親王は、第67代・三条天皇として即位します。藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の後押しで東宮(皇太子)となって20年以上を過ごし、即位後は、兼家の子・道長(みちなが)の圧力により、わずか5年で譲位。権力を握る藤原父子に心ならずも操られた三条天皇は、実際にはどのような人物だったのか、史実をベースに紐解いてみましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、藤原道長の次女・妍子(けんし/きよこ)を妃に迎えながら、即位後、道長と対立する人物(演:木村達成)として描かれます。
目次
はじめに―三条天皇とはどのような人物だったのか
三条天皇が生きた時代
三条天皇の生涯と主な出来事
まとめ
三条天皇が生きた時代
三条天皇が東宮として生き、天皇として過ごしたのは、一条天皇の摂政として藤原兼家が権力を握り、その座を受け継いだ三男の道長が政権を掌握した時期と重なります。兼家・道長は娘を入内させることを足掛かりに、天皇の譲位・即位をも、意のままにする政治力を持っていました。天皇はもはや、お飾りのような状態だったのです。
居貞親王(三条天皇)の生涯と主な出来事
三条天皇は天延4年(976)に生まれ、寛仁元年(1017)に没しています。その生涯を、主な出来事ともに辿りましょう。
外祖父・藤原兼家に溺愛され東宮となる
三条天皇(居貞親王)は、天延4年(976)、冷泉(れいぜい)天皇の第二皇子として生まれます。母は摂政太政大臣・藤原兼家の長女・超子(ちょうし/とおこ)。冷泉天皇には気の病があったとされ、わずか2年で譲位し、その弟が円融天皇として即位。しかし、円融天皇が兼家の圧力によりやむなく譲位に至ると、冷泉天皇の第一皇子・花山天皇が即位します。その花山天皇が、やはり兼家の画策で突然の出家、そして譲位。
寛和2年(986)、円融天皇の第一皇子が一条天皇として即位し、三条天皇(居貞親王)は兼家の後押しで東宮(皇太子)となりました。このとき、一条天皇6歳、三条天皇(居貞親王)10歳。三条天皇(居貞親王)のほうが4歳年長だったため、「さかさ儲け(もうけ)の君」といわれたと伝えられています。ちなみに儲けの君とは、皇位継承予定者のことです。
ところで、一条天皇の母は兼家の次女・詮子(せんし/あきこ)であり、兼家は天皇を補佐する摂政として権力を握りました。三条天皇(居貞親王)の母は、先に述べたように兼家の長女。兼家には、ふたりの天皇の外戚となる野望があったと考えられています。
権力欲の強い兼家ですが、一方で、父は気の病、母はすでに亡く、後見が脆弱であったにもかかわらず三条天皇(居貞親王)をことのほか可愛がっていました。『大鏡』によれば、外見が兼家にとても良く似ていたそう。また、「雷も鳴り、地震もふる時は、まず春宮(居貞親王)の御方にまひらせたまひて」(雷が鳴ったり地震のときは、真っ先に居貞親王の元へ駆けつけた)と、一条天皇ではなくまずは、三条天皇(居貞親王)のもとへ急いだという逸話を伝えています。
【35歳で即位。道長の威圧もあり失意の退位。次ページに続きます】