はじめに-清原元輔とはどのような人物だったのか
清原元輔(きよはらのもとすけ)は、平安時代の中期に生きた歌人です。三十六歌仙の一人にも選ばれており、小倉百人一首の歌で馴染み深い方もいらっしゃるかもしれません。あるいは、清少納言の父としてご存知の方もいらっしゃるかもしれませんね。
実際の清原元輔とはどのような人物だったのか、史実をベースに辿ってみましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、才気煥発(かんぱつ)な清少納言の父親として描かれます。
目次
はじめに―清原元輔とはどんな人物だったのか?
清原元輔が生きた時代
清原元輔の足跡と主な出来事
まとめ
清原元輔が生きた時代
清原元輔は、延喜8年(908)に生まれた平安時代中期の歌人です。中国大陸の文化を取り入れてきた唐風文化に代わり、元輔が生きた10世紀ごろからは日本風の貴族文化である国風文化(藤原文化とも言う)が現れます。
その中でも、仮名の成立は、国風文化を形成する象徴でもあるでしょう。元輔が生まれる3年前の延喜5年(905)から編纂された『古今和歌集』が仮名で記されたことは、歴史的に大きな意味を持ちました。
仮名文字の発達に伴い、国文学は大いに隆盛します。特に、藤原氏の全盛期は、国風文化の絶頂期でもありました。元輔はそうした時代に歌人として活躍し、娘の清少納言は『枕草子』を執筆するのです。
清原元輔の足跡と主な出来事
清原元輔は、延喜8年(908)に生まれ、正暦元年(990)に没しています。その生涯を主な出来事とともに紐解いていきましょう。
身分が低かった、元輔
元輔は、延喜8年(908)に父・清原春光の子として誕生しました。祖父は中古三十六歌仙の一人であり、紀貫之とも親交があった清原深養父(ふかやぶ)だと言われています(元輔は深養父の子供だという説もあり)。
官歴は、河内権少掾(しょうじょう)、少監(しょうげん)といった低い身分でした。
撰和歌所の寄人となる
天暦5年(951)、村上天皇の命を受けて、昭陽舎(梨壺)に設けられた撰和歌所の寄人(よりうど)となります。源順(みなもとのしたごう)、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、坂上望城(さかのうえのもちき)、紀時文(きのときぶみ、紀貫之の子)とともに「梨壺(なしつぼ)の五人」として、『後撰和歌集』を編纂する仕事に従事。このほか、『万葉集』に初めて訓点をつけて研究や読解を行ないました。
元輔自身、『天徳四年内裏歌合』、『一条大納言為光家歌合』、『三条左大臣頼忠家前栽合』で詠出もしています。
【洒脱な人柄から、身分が高い御歴々からも好かれる。次ページに続きます】