はじめに-藤原忯子とはどのような人物だったのか
藤原忯子(ふじわらのよしこ/しし)は、平安時代の中期に生きた女性で、花山天皇の女御(天皇の寝所に侍した高位の女官のこと)でした。花山天皇の子を宿しますが、懐妊中に没してしまいます……。
藤原忯子とはどのような人物だったのか、史実をベースに辿ってみましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、花山天皇の寵愛を受けるものの早逝をし、天皇出家のきっかけを作る人物(演:井上咲楽)として描かれます。
目次
はじめに-藤原忯子とはどんな人物だったのか?
藤原忯子が生きた時代
藤原忯子の足跡と主な出来事
まとめ
藤原忯子が生きた時代
藤原忯子は、安和2年(969)に生まれた平安時代中期の女性です。忯子が生まれた時代は、天皇家と密接な関係にあった藤原氏が摂政・関白の座を独占し、他の貴族はもとより、天皇をしのぐ権力を握っていました。
藤原氏が権力闘争を繰り広げる中、藤原忯子は花山天皇の女御となり、若くして亡くなってしまいます。そして、その死は、権力闘争に利用されることになるのです……。
藤原忯子の足跡と主な出来事
藤原忯子は、安和2年(969)に生まれ、寛和元年(985)に没しています。その生涯を主な出来事とともに紐解いていきましょう。
花山天皇の女御となり、“弘徽殿の女御”と呼ばれる
忯子は、安和2年(969)に父・藤原為光、母・藤原敦敏の娘の子として誕生しました。永観2年(984)に入内し、弘徽殿(こきでん/こうきでん)の女御と呼ばれるようになります。
弘徽殿とは、平安宮内裏 (だいり) の殿舎の名の一つのこと。天皇の日常の御在所である清涼殿 (せいりょうでん) に、もっとも近い場所にありました。
ちなみに、『源氏物語』にも「弘徽殿の女御」が出てきますが、忯子がモデルであったわけではないようです。
懐妊するも若くして没する
忯子は、花山天皇の寵姫となり懐妊します。しかし、寛和元年(985)7月18日、身籠ったまま若干17歳の若さで亡くなってしまいました。
【花山天皇は忯子の死を嘆き、出家…。次ページに続きます】