金地院崇伝
写真:photoAC(一部加工)

はじめに-金地院崇伝とはどんな人物だったのか?

テレビ朝日系『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』(以下、『真田十勇士』)でも登場する、徳川家康(演:内藤剛志)の側近として外交や法令の制定に携わり、後世「黒衣(こくえ)の宰相」と呼ばれた僧侶がいます。

金地院崇伝(こんちいん・すうでん、演:佐野史郎)です。

以心崇伝(いしん・すうでん)ともいい、臨済宗の僧侶でありながら、外交文書を起草し、寺社行政を担い、武家諸法度など幕府初期の法制度づくりにも深く関わりました。

さらに、豊臣家と徳川家が決定的に対立するきっかけの一つとなった方広寺の鐘銘問題にも関与しています。

そのため、後世には「豊臣家を滅ぼす策をめぐらせた悪僧」「徳川幕府を陰で操った黒幕」といった印象で語られることも少なくありません。

しかし、実際の崇伝は、室町幕府以来の五山僧が培ってきた外交・文書作成の知識を生かし、新しく誕生した徳川政権の仕組みを整えていった高度な実務家でした。

『真田十勇士』では、関ヶ原の戦いから14年後、徳川家康と豊臣家との対立が再び動き出す時代が描かれています。

そのとき、家康の側近として政権中枢にいた崇伝とは、どのような人物だったのでしょうか?

金地院崇伝が生きた時代

金地院崇伝が生まれた永禄12年(1569)は、室町幕府の権威が大きく揺らいでいた時代でした。織田信長が勢力を伸ばし、天正元年(1573)には室町幕府が事実上滅亡します。

崇伝自身も、この政変によって父を失いました。その後、天下の主導権は織田信長から豊臣秀吉へ、さらに徳川家康へと移っていきます。

一方で、武力によって天下を制するだけでは、新しい政権を長く維持することはできません。朝廷、公家、寺院、大名、外国との関係をどのように整理するのか。どのような規則を定め、それを文書として示すのか…?

天下統一後には、戦場で戦う武将とは異なる能力を持った人材が必要になりました。そこで家康に重用されたのが崇伝でした。外交文書を作り、法令を整え、寺社を統制し、朝廷との交渉にも携わる…。

崇伝は、戦国時代から江戸時代へ移り変わる中で、「武力によって天下を取る時代」から「制度によって天下を治める時代」への橋渡しを担った人物の一人だったのです。

金地院崇伝の⾜跡と主な出来事

金地院崇伝は永禄12年(1569)に生まれ、寛永10年(1633)に没しています。その生涯を主な出来事とともに辿ってみましょう。

室町幕府の家臣の家に生まれる

崇伝は永禄12年(1569)に生まれました。俗姓は一色氏。父は一色秀勝(いっしき・ひでかつ)で、足利将軍家に仕えた家柄でした。

しかし天正元年(1573)、織田信長によって室町幕府が滅亡すると、崇伝は父と死別します。まだ幼かった崇伝は京都・南禅寺に入り、玄圃霊三(げんぽ・れいさん)に師事しました。

ここから僧侶としての人生が始まります。

南禅寺で学問を積む

崇伝は南禅寺だけでなく、醍醐寺三宝院などでも学びました。さらに、相国寺(しょうこくじ)の西笑承兌(さいしょう・しょうたい)からも教えを受け、南禅寺金地院の靖叔徳林(せいしゅく・とくりん)の法を継ぎました。26歳で住職となる資格を得たとされています。

そして慶長10年(1605)、建長寺の住持となり、同年には南禅寺の住持にも就任。崇伝は応仁の乱以来荒廃していた南禅寺の復興にも取り組み、金地院に住みました。

このころまでは、政治家というよりも、教養豊かな禅僧としての歩みが中心でした。転機が訪れるのは、その数年後です。

徳川家康に招かれる

慶長13年(1608)、崇伝は徳川家康の招きを受け、駿府へ赴きました。家康が崇伝に任せたのは、外交文書の作成です。

徳川家康
駿府城公園にある晩年の徳川家康像
写真:貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

当時、日本は朝鮮や中国、東南アジア、ヨーロッパ勢力などと外交・交易関係を持っていました。当然ながら、外国との交渉には高度な漢文能力や過去の外交慣例についての知識が必要です。

崇伝はその能力を買われ、徳川政権の外交実務を担うようになりました。その仕事について記録したのが『異国日記』です。

『世界大百科事典』(平凡社)では、崇伝について、後世に「策謀家」と受け取られがちであるものの、実態は五山僧として身につけた内外の古典の知識によって家康に登用された実務家だったとしています。

つまり、崇伝が政治の中枢に入った最大の武器は、陰謀ではなく「知識と文章」だったのです。

なぜ僧侶が外交を担当したのか?

現代の感覚では、僧侶が外交文書を作ることを不思議に思うかもしれません。しかし、室町幕府の時代から、禅宗の五山僧は外交文書の作成などを担っていました。

中国の古典や漢文に精通していたためです。家康は、新しい徳川政権を築くにあたり、過去の制度や故実を重視しました。

そこで、室町幕府以来の外交・文書行政の伝統を知る崇伝の能力が必要になったのです。室町幕府の家臣の家に生まれた崇伝が、室町時代から続く知識を徳川幕府へ受け渡していく。

崇伝の存在は、二つの幕府をつないだともいえるでしょう。

寺社行政と法令づくりを担当

慶長17年(1612)以降、崇伝は京都所司代の板倉勝重(いたくら・かつしげ)とともに寺社行政や訴訟を担当するようになります。さらに家康の命を受け、朝廷、公家、寺院などから古典や記録を集めました。

その知識をもとに、寺院法度、公家諸法度、武家諸法度など、徳川幕府初期のさまざまな法令の起草に関わります。

家康が考える政治秩序を、実際の「文章」にして全国へ示す。それが崇伝の重要な仕事でした。

後世に「黒衣の宰相」と呼ばれるほど影響力を持った理由も、ここにあります。

キリスト教禁制にも関与

崇伝は、徳川幕府によるキリスト教禁制にも深く関わりました。慶長18年(1613)12月23日付で作成され、翌年に全国へ布達された「排吉利支丹文(はいきりしたんぶん)」は、崇伝が起草したものです。

これによってキリスト教を禁じ、宣教師を国外へ追放する幕府の方針が明確に示されました。崇伝は単なる書記ではなく、幕府の政策を正式な法令・文書として形にする重要な役割を担っていたのです。

方広寺鐘銘事件|豊臣家との対立

金地院崇伝の名が最もよく知られている出来事の一つが、方広寺鐘銘事件です。秀吉の遺志を継いだ豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)が京都・方広寺の大仏殿を再建し、慶長19年(1614)には梵鐘も完成しました。

しかし、その鐘に刻まれた銘文が問題となります。

方広寺
写真:photoAC

この鐘銘をめぐる対立が、徳川家と豊臣家の関係を決定的に悪化させ、大坂冬の陣へとつながっていきました。

『日本大百科全書』(小学館)では、大坂城攻撃の端緒となったこの鐘銘問題には、崇伝の考えがあったとされています。また『国史大辞典』(吉川弘文館)では、崇伝は家康の真意をくみ、それを実際の政治処理へ移した人物とされています。

このことを踏まえると、崇伝一人が鐘銘を利用して豊臣家滅亡を企てた、と単純に考えることはできません。むしろ「家康の政治的意図を理解し、それを文章や交渉、処理の形へ落とし込む役割を担ったのが崇伝だった」と見るほうが史実に即しているでしょう。

大坂の陣では家康の側近に

方広寺鐘銘事件を経て、慶長19年(1614)、大坂冬の陣が始まりました。崇伝は、このころ家康の側近にあって参謀的な立場を務めていました。

『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、方広寺の鐘銘・大仏殿棟札の問題から、大坂の陣後の処分に至るまで、家康の意向を受けて強硬な姿勢で対応したとされています。

真田信繁(幸村)らが戦場で徳川軍と戦っていた一方、崇伝は政治・外交・法令の側から徳川政権を支えていたのです。

大阪城
現在の大阪城
写真:photoAC

家康の死後、天海と対立

元和2年(1616)、徳川家康が亡くなりました。すると今度は、家康をどのような神として祀るかが問題となります。崇伝は吉田神道による神格化を支持しました。

一方、天海(てんかい)は山王一実神道を主張します。この争いでは天海が勝ちました。

家康存命中には政権中枢で大きな影響力を持った崇伝でしたが、家康の死後、その立場にも少しずつ変化が生じていきます。

僧録となり、禅宗寺院を統括

それでも崇伝の影響力がすぐに失われたわけではありません。元和4年(1618)、江戸芝に金地院を建立。翌元和5年(1619)には僧録に任ぜられました。僧録とは、禅宗寺院を統括する役職のことです。

崇伝は五山・十刹・諸山の住持の任免など、禅宗寺院行政の実権を握りました。

寛永3年(1626)には後水尾天皇から「円照本光国師」の国師号を賜っています。僧侶としても、非常に高い地位に上り詰めたことになります。

紫衣事件で「悪国師」と呼ばれる

崇伝の評判を大きく落としたのが、寛永4年(1627)に起こった紫衣(しえ)事件です。紫衣とは、高僧に与えられる紫色の法衣のこと。朝廷が寺院の僧侶に与えてきた紫衣をめぐり、幕府が朝廷の勅許を無効としたことで対立が起こりました。

大徳寺の沢庵宗彭(たくあん・そうほう)らが幕府に抗議します。崇伝は、こうした僧侶たちへの厳罰を主張しました。結果として沢庵らは流罪となります。

この強硬な対応によって、崇伝は世間から強い反感を買いました。「大欲山気根院僭上寺悪国師(だいよくざんきこんいんせんじょうじあくこくし)」などという、皮肉を込めたあだ名までつけられたといいます。

さらに沢庵からは「天魔外道(てんまげどう)」とも評されました。

「黒衣の宰相」「悪僧」という後世の崇伝像には、こうした強硬な政策姿勢が大きく影響しています。

寛永10年(1633)、65歳で死去

家康の死後、崇伝は次第に幕政の中心から距離を置くようになります。『本光国師日記』にも、後年になると政治の記録より、諸権門から依頼された易占や書画鑑定などの記事が目立つようになります。

そして寛永10年(1633)1月20日、江戸芝の金地院で亡くなりました。65歳でした。墓は京都市左京区の南禅寺金地院にあります。

金地院
芝にある、金地院
写真:photoAC

まとめ

『真田十勇士』で描かれる大坂の陣では、真田幸村らが武力で家康に挑みます。一方、その家康の背後には、金地院崇伝のように「言葉と制度」で新しい時代を作ろうとした人物がいました。

武将だけでは見えてこない大坂の陣と徳川政権の姿を知る上で、金地院崇伝は欠かすことのできない人物といえるでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

Instagram:@kyoto_monokaki
note:@kyoto_monokaki

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『新カトリック大事典』(研究社)
『日本歴史地名大系』(平凡社)

アイキャッチ画像/photoAC(一部加工)

 

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