方広寺鐘銘事件と紫衣事件
そのような中、慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件が起こります。これは徳川家と豊臣家の決裂が決定的になり大坂冬の陣のきっかけともなった出来事でした。
経緯を簡単に紹介しましょう。秀吉の嫡男・秀頼(ひでより)は、秀吉が生前、京に建立した方広寺大仏殿と大仏の再建を目指していました。大仏は地震で倒壊し、大仏殿は焼失したままになっていたのです。慶長19年(1614)、梵鐘が完成。秀頼の後見役の片桐且元(かたぎり・かつもと)はその銘文の筆者に南禅寺の清韓(せいかん)を選定します。
この清韓の書いた銘文の中に、「国家安康」「君臣豊楽」の二句があったことに家康は激怒。家康の名を分断し、豊臣家の繁栄を謳うものだというのです。取り調べには崇伝も関わり、勝元や淀殿の乳母・大蔵卿(おおくらきょう)と面談しています。
また、東福寺住持は清韓の救援を依頼しますが、崇伝はこれを断っています。同じ南禅寺の僧でありながら家康のブレーンであった崇伝と政治的に対立していたのが要因とも。清韓は駿府で拘束され、当地で没しました。
さて、崇伝がのちの世まで「黒衣の宰相」といわれた所以の出来事のひとつが、「紫衣(しえ)事件」です。崇伝は、朝廷を幕府の統制下に置くために「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を起草。
寛永4年(1627)、後水尾天皇はこの法度を破り、幕府の許可を得ることなく大徳寺、妙心寺の僧に紫衣着用の勅許を出します。紫衣は高僧の証しとして朝廷から賜るのが慣例でした。幕府はこれを無効とし、崇伝は関係者の厳罰を主張。結果として、大徳寺の沢庵が出羽(でわ)に流される(のちに赦免)など数名が配流となり、後水尾天皇の退位にまでつながりました。
明神? 権現? 天海との「神号」合戦
崇伝は方広寺鐘銘事件、公家を管理下に置くことを公言したといえる「禁中並公家諸法度」などを通して、徳川家の権力と権威を安定させ、家康の神格化を図りました。
その家康は、元和2年(1616)4月17日、駿府城にて死去。死後、問題となったのは神号でした。崇伝は「明神」(みょうじん)号を主張。日本独自の神々を尊重する吉田神道の神号です。一方、崇伝のライバル・天海(てんかい)は「権現」(ごんげん)号を主張。天台宗の僧であった天海自身が信仰する山王一実神道の神号でした。
天海は、豊臣秀吉の豊国大明神を引き合いに出し、その悲惨な末路と同じになることを訴えます。そして秀忠による裁定で「権現」号に決まり、朝廷から示された東照大権現が家康の神号となりました。
秀忠の代になると、幕政は老中による合議制へと移行。崇伝は寛永10年(1633)、江戸城内金地院に没しました。
まとめ
3か所の金地院を行き来しながら、政治の中枢を担った金地院崇伝。神号合戦には敗れましたが、幕府の権威を決定づけた紫衣事件など、その才覚と辣腕は徳川の世を盤石にするためになくてはならないものでした。
「黒衣の宰相」と呼ばれたカリスマ策謀家は死して江戸から戻り、京都・金地院で静かに眠っています。
文/深井元惠(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
国立公文書館
国史大辞典(吉川弘文館)