はじめに-「明智光秀、饗応役解任事件」とはどんな出来事だったのか
「明智光秀、饗応役解任事件」とは、織田信長が明智光秀を饗応役(きょうおうやく、来客を接待する役職)から解任した出来事を指します。天正10年(1582)、念願の武田討伐を果たした信長。意気揚々と安土城に凱旋した信長は、同じく武田氏に苦しめられてきた同盟相手・徳川家康を労うため、彼に駿河国(現在の静岡県中部)を与えることにしました。
その後、家康は駿河国を与えてくれた信長にお礼をするため、安土城を訪れることになりました。これを受けて、信長は家康をもてなす準備を始めます。この時、食事などを提供して家康を接待する饗応役として、光秀が抜擢されたのです。
信長の期待に応えるべく、調理などの準備に取り掛かった光秀でしたが、ある出来事がきっかけとなって、信長の逆鱗に触れてしまったとされています。「本能寺の変」が勃発した原因とも考えられている、この事件の内容はどのようなものだったのでしょうか? 史実をベースにしながら解説します。
目次
はじめに―「明智光秀、饗応役解任事件」とはどんな出来事だったのか
「明智光秀、饗応役解任事件」はなぜ起こったのか
関わった人物
「明智光秀、饗応役解任事件」の内容と結果
「本能寺の変」との関係は?
まとめ
「明智光秀、饗応役解任事件」はなぜ起こったのか
天正10年(1582)、武田討伐を進めていた信長は、武田氏の諸城を次々と攻め落とし、武田勝頼を自害へと追い込みます。勝頼が自害したことで、戦国最強と名高い武田氏はついに滅亡することに。武田氏の滅亡は、信長や家康にとって、大変大きな出来事でした。
特に、元亀3年(1572)の「三方ヶ原の戦い」では、武田氏に屈辱的な大敗を喫し、その後も最前線で戦いを繰り広げてきた家康。信長は、そんな家康を労うために、駿河国を与えることにしたのです。これにより、家康は三河・遠江・駿河の三国を有する大名へと成長しました。
武田氏が滅亡したことで、さらなる勢力拡大に成功した家康は、信長へのお礼も兼ねて、安土城を訪れることに。一方、家康の饗応役として抜擢された光秀は、家康をもてなすための準備に取り掛かります。しかし、光秀の手際の悪さが、信長を激怒させることとなったのです。
関わった人物
では、「明智光秀、饗応役解任事件」に関わった主な人物について、紹介します。
織田信長
尾張国(現在の愛知県)出身の戦国大名。光秀の手際の悪さに腹を立て、彼を饗応役から解任したとされる。
徳川家康
岡崎城主・松平広忠の子として生まれ、幼少期を織田氏・今川氏の人質として過ごす。駿河国を与えてくれた信長にお礼をするべく、安土城へと向かう。
明智光秀
美濃国(現在の岐阜県)出身の戦国大名。家康の饗応役に任命されるも、信長の逆鱗に触れてしまい、解任されることに……。
「明智光秀、饗応役解任事件」の内容と結果
信長の伝記である『信長公記』には、天正10年(1582)の5月15日から17日までの3日間、光秀は家康の饗応役を務めることになったと記されています。
しかし、光秀が最後まで饗応役を務めきることはありませんでした。なぜなら、信長が光秀の手際の悪さに腹を立てて、解任してしまったからです。秀吉に関する逸話がまとめられている『川角太閤記』によると、用意されていた魚が腐っていたことに、信長が激怒したとされています。
そして、信長は光秀を饗応役から解任し、中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉の援軍として出陣するように命じたのです。饗応役から解任されたこと、そして、同じく信長の家臣である秀吉の指揮下に入らなければならなくなったことは、光秀の自尊心を深く傷つけたと考えられます。
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