はじめに-佐久間信盛とはどんな人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』に登場する佐久間信盛(さくま・のぶもり、演:菅原大吉)は、織田信長(演:小栗旬)に仕えた宿老の一人として知られる戦国武将です。織田家の武将を表したもので「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間」というものがあります。この中で信盛は「退き佐久間」と称され、殿(しんがり)軍の指揮を得意としたことがうかがえます。
信長の天下統一に向けた数々の戦で重要な役割を果たしましたが、晩年には信長の怒りを買って追放されるという波乱の人生を歩みました。
本記事では、信盛の功績と挫折の軌跡をたどりながら、戦国時代の裏面史に迫ります。
『豊臣兄弟!』では、信長の父・信秀の代から織田家に仕える重臣として描かれます。

佐久間信盛が生きた時代
佐久間信盛が活躍したのは、室町幕府が衰退し、各地の大名が覇権を争う戦国時代。織田信長が尾張を統一し、勢力を急拡大させた激動の時代でした。
この時代は、戦国大名が武力と知略でしのぎを削りながらも、次第に中央集権的な体制へと移行しつつあった過渡期でもあります。信盛は、そうした時代のうねりの中で忠義を尽くし、やがては信長の怒りを買って歴史の表舞台から姿を消すことになります。
佐久間信盛の足跡と主な出来事
信盛は大永7年(1527)に生まれ、天正9年(1581)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
尾張に生まれ、信長に仕える
信盛は大永7年(1527)ごろ、尾張国(現在の愛知県)に生まれました。父は佐久間信晴。佐久間氏は、尾張で代々続く武家の家系で、信盛はその中でも山崎城主として知られています。
早くから織田信長の家臣として仕え、信長の尾張統一戦や上洛戦に従軍。永禄11年(1568)には信長に従って京都に入り、京都の治安維持にも尽力しました。やがて近江永原城の城主となり、軍事面でも重責を担うようになります。

六角氏を破り、武功をあげる
元亀元年(1570)、信盛は柴田勝家とともに近江の六角義賢を破る戦功をあげ、信長の信任を深めました。その後も朝倉氏・浅井氏との戦いや、比叡山延暦寺の焼き討ちに関与するなど、重臣として活躍を続けます。

三方ヶ原の戦いでは惨敗を経験
元亀3年(1572)、信盛は徳川家康を援護して「三方ヶ原の戦い」に参戦しますが、武田信玄の前に大敗……。この敗戦は信盛にとって痛手となり、以後、軍事的な評価に影を落とす一因となったともいわれています。
長篠の戦いでは鉄砲隊を指揮
天正3年(1575)の「長篠の戦い」では、信盛は滝川一益(たきがわ・かずます)とともに鉄砲隊を指揮し、武田勝頼軍を撃破。織田軍の勝利に大きく貢献しました。この戦功により、信盛は水野信元(徳川家康の生母の異母兄)の旧領を与えられています。
石山本願寺攻めと失脚のきっかけ
信盛の転機となったのは、天正4年(1576)から始まった「石山本願寺攻め」でした。信盛はこの戦いで織田方の総大将格として出陣しますが、5年にもおよぶ包囲戦にもかかわらず決着がつかず、信長の苛立ちを招きます。
天正8年(1580)、石山本願寺がようやく開城した直後、信盛は「無為無策」「功なき者」として信長から糾弾され、高野山への追放を命じられました。ここには、長年の家臣でありながら信長の期待に応えきれなかった責任を問われたとも、あるいは信盛の保守的な性格が信長の急進的な方針と合わなかったともいわれています。
高野山での余生と死
追放後、信盛は高野山で謹慎し、剃髪して「宗盛」と号しました。天正9年(1581)、病にかかり、紀伊国十津川の温泉で療養中に55歳で死去。京都・大徳寺の高東院に葬られました。

まとめ
佐久間信盛は、織田信長の重臣として約30年にわたり忠誠を尽くした戦国武将です。六角氏討伐や長篠の戦いなどで軍功をあげながらも、石山本願寺攻めの長期化により信長の怒りを買い、失脚するという劇的な人生を送りました。
最後は高野山で静かに命を終えた信盛。その姿は、戦国という時代がもたらす「栄光と失脚」の儚さを象徴しているといえるでしょう。織田家の中核を担った名将として、その存在は今も語り継がれています。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











