沿線住民が作り上げた水鏡に映る桜の駅
飯給(いたぶ)駅|千葉県・小湊鐡道
JR 内房線の五井駅と上総中野駅を結ぶ小湊(こみなと)鐡道は、大地の小皺のような房総丘陵を貫いて走る非電化の私鉄だ。その列車に乗れば、森やトンネルを抜けるたびに箱庭のような風景が現れ、春になると目を見張るような桜の風景が沿線に続く。なかでも、ぜひ訪ねたいのが飯給(いたぶ)駅だ。難読駅名で知られるこの駅は片面ホームに待合室があるだけの無人駅である。しかし駅をとり囲むように植えられた桜がひとたび開花すると、沿線一の桜駅に変貌する。
夕闇に映える駅と桜
「代搔きにはまだ少し早いけどな」と小川から田んぼに水をひく地域の人たち。駅を出て、あぜ道を歩いてホームの真横に出る。この駅では桜の時期に合わせて地元のボランティアの人たちが菜の花を植え、水田に水を張り、水鏡に映る桜の駅を演出する。近年はその景観が知れ渡り、多くのカメラマンが訪れるようになった。
夕暮れになると線路脇の桜がライトアップされ、駅と桜が暗闇に浮き上がる。そして列車が現れると、まるで能舞台に演者が進み出るような春の絶景が展開する。
カメラマンの三脚が並ぶ水田の後ろに、杉が茂る丘がある。山中には壬申の乱(672年・弘文天皇1)で敗れた弘文天皇( 大友皇子)を祀る白山神社がひっそりと佇む。飯給とは、逃れ下った皇族に人々が飯を奉じたことが、地名の由来と伝えられている。それから1000年以上を経ても地元のもてなしの精神は変わらず、春のひととき、類稀な桜と駅の風景を見せてくれる。
近年は自動車での来訪も増えたというが、山里の小駅ゆえ駐車スペースは少ない。ここはぜひ列車で訪ねたい桜駅の聖地だ。
案内人
杉崎行恭(すぎざきゆきやす)さん
(駅旅ライター・69歳)
昭和29年、兵庫県生まれ。写真家、フリーライター。旅行雑誌を中心に活躍。鉄道全般に造詣が深く、駅と駅舎の専門家としても知られる。著書に『百駅停車』(新潮社)、『あの駅の姿には、わけがある』(交通新聞社)など多数。
※杉崎のさきはただしくは「たつさき」。
※この記事は『サライ』2023年4月号より転載しました。