はじめに-鵜殿長照とはどんな人物だったのか
鵜殿長照(うどのながてる)は、今川義元に重用された家臣です。「桶狭間の戦い」にて、松平元康(家康)が兵糧入れを行った大高城。長照はその守備を任され、籠城をしていた武将として知られています。また、義元亡き後も今川氏に仕えたことから“忠義の人”という印象をお持ちの方も多いのではないでしょうか。
では、実際の鵜殿長照はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、家康と激戦を繰り広げる、今川家の重臣(演:野間口徹)として描かれます。
目次
はじめに-鵜殿長照とはどんな人物だったのか
鵜殿長照が生きた時代
鵜殿長照の足跡と主な出来事
まとめ
鵜殿長照が生きた時代
鵜殿長照が生きたのは、今川氏における最盛期を築いた今川義元の時代でした。今川氏が領国の拡大とともに、西進政策を採り続ける中で、その一員として戦いに加わります。しかし、それは同時に今川氏と織田信長・徳川家康らとの闘争の時期とも重なったのです。
鵜殿長照の足跡と主な出来事
鵜殿長照は、生年不詳で、永禄5年(1562)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
今川氏の家臣・鵜殿氏に生まれる
鵜殿長照は、今川義元の家臣・鵜殿長持(ながもち)の子として生まれました。一説には母は今川義元の妹であり、長照は義元の甥であったともされますが、真相は明らかではありません。義元の子・氏真(うじざね)に仕え、三河国・上之郷(かみのごう)城主となります。現在の愛知県蒲郡市神ノ郷(かみのごう)町に位置する上之郷城は、鵜殿氏の居城であったところから「鵜殿城」とも呼ばれています。
「桶狭間の戦い」にて家康に助けられる
弘治3年(1557)、父・長持が死去すると、長照が当主の座に就きます。永禄2年(1559)に、今川氏が織田家から大高城(おおだかじょう=現在の愛知県名古屋市緑区に位置)を奪取。すると、今川義元は長照を大高城の城代(じょうだい=城主の代理で城を守る役職)としたのでした。
翌年の永禄3年(1560)5月、今川義元は2万5千の大軍を動員し、信長率いる尾張国に兵を進めました。この「桶狭間の戦い」において、長照が治める大高城は今川方の前線拠点でした。しかし、織田軍に周りを固められて兵糧が尽きかけていました。
すると、今川家の人質・松平元康(徳川家康)が、織田方の包囲を突破し、兵糧の搬入に成功。いわゆる「大高城兵糧入れ」です。翌日未明から、元康は織田方の丸根(まるね)砦と鷲津(わしづ)砦を攻め落としました。勝利した元康は、長照に代わって大高城の守備を務めたとされます。
この兵糧補給を契機に大高城をめぐる攻防は今川軍が優勢に転じ、今川義元率いる本隊も大高城に向けて進軍。しかし、途中にある桶狭間・田楽狭間(でんがくはざま)にて主君・義元が織田軍に討ち取られます。
【徳川軍に攻められ、討死。次ページに続きます】