文と写真・晏生莉衣
サッカー日本代表監督を務められたイビチャ・オシムさんのご逝去に、哀悼の声が寄せられています。鋭さと温かさを兼ね備えたオシム監督の指導は注目を集め、その数々の名言は「オシム語録」として日本で広く親しまれました。旧ユーゴスラヴィア連邦国ボスニア・ヘルツェゴヴィナのご出身で、選手としても、監督としても、母国や他のヨーロッパの国々で数々の輝かしい功績を残されたオシムさん。その後に活躍された日本でも、ユーゴ諸国の独立紛争と連邦崩壊という激動の歴史の渦に巻き込まれた人生が、オシムさんのカリスマ的な人間性と結びつけられて語られることがよくありました。
激しい民族対立の中で
オシムさんが生まれたボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォは、1990年代前半に民族対立による武力衝突が勃発するとすぐ、同国のセルビア系武装勢力によって包囲され、街は封鎖されてしまいます。当時、サラエヴォで暮らしていたオシムさんのご家族も街に閉じ込められた状態となり、仕事でサラエヴォを離れていたオシムさんとは2年半の間、まったく会うことができず、ご一家は大変苦しい時期を過ごされたと伝えられています。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ内戦は、「エスニッククレンジング」「民族浄化」と表現された凄惨な民族紛争となり、サラエヴォでもセルビア系武装勢力のスナイパーが住民を容赦なく狙撃する市街戦が繰り広げられました。その激しい戦いの中で、サラエヴォから約130キロ離れたムスリム系の飛び地で起きたのが、「スレブレニツァの大虐殺」と呼ばれるジェノサイドです。
これは、スレブレニツァという村に避難していたムスリム系のボシュニャク人のうち、兵役適齢期とされた16歳から65歳までの男性たちをターゲットとした集団殺害で、7000人以上のボシュニャク人男性がセルビア系武装勢力によって村から強制的に連行され、数日のうちに処刑されました。人道上の悪夢とも言われたこの出来事は、のちに、第二次世界大戦後のヨーロッパで起きた最初のジェノサイドとして国際法廷で認定されることとなったのですが(レッスン24参照(https://serai.jp/living/1069741))、当時の状況と、現在、多くの人々から「ジェノサイドだ」と非難されているウクライナの状況では、国際的な環境という面でかなり大きな違いがあります。
ウクライナとの違いは
最大の違いは、ムスリム民族を意図的に排除しようとするジェノサイドが起こる以前から、スレブレニツァは国連によって「安全地帯」に指定され、国連平和維持部隊が派遣されていたという点です。ただし、このことは、当時のスレブレニツァが現在のウクライナ各地よりも軍事的に守られていてより安全だったということを意味するものではありません。スレブレニツァ一帯には約600名のオランダ人部隊から成る国連保護軍が駐屯していたのですが、それにもかかわらず、ジェノサイドは起こったのです。より正確に言えば、処刑対象となるボシュニャク人男性の選別も強制移送も、国連保護軍本部の敷地を出発点として、ブルーヘルメットをかぶった国連ピースキーパーたちの目の前で実行されていきました。国連平和維持活動の意義よりも無力さが示されたこの事件が明らかになるにつれ、非人道的な集団殺害を防ぐことができなかった国連の責任が大きく問われることとなりました。
現在のロシアによるウクライナへの軍事侵攻では、ロシアが国連安全保障理事会で拒否権を持つ常任理事国であるため、国連が問題解決に向けて機能できていないという点がすでに指摘されています。国連平和維持活動については、スレブレニツァの実例が示すように、派遣された部隊が平和維持ミッションを果たせるかどうかが大きな課題となりますが、ウクライナの場合はそれ以前の問題として、ウクライナが望んだとしても、国連平和維持軍が派遣される可能性自体、きわめて低いのではないかと考えられています。
NATO、EUも介入したボスニア紛争
もう一つの大きな違いは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争ではNATOの軍事介入があったという点です。ロシアの軍事侵攻が開始されて以後、ウクライナはNATOの直接的な軍事介入を繰り返し懇願していましたが、NATO側はウクライナがNATO加盟国でないことを理由に、ウクライナの要求に応じていません。これとは対照的に、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはウクライナ同様にNATOに未加盟でしたが、NATOは国連と協調して同国の紛争に軍事介入したのです。
スレブレニツァではセルビア系武装勢力の侵攻を食い止めるためにNATOの軍用機がスタンパイしていたものの、連絡ミスなどが重なってNATOの空爆は効果を上げられませんでした。しかし、このジェノサイド事件以降、NATOは大規模な空爆を行ってセルビア系武装勢力を弱体化させ、それによって和平合意への道が開かれて、同国の内戦はようやく終結することになりました。
約10万人の死者と200万人以上の避難民を出したと言われるボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争。これは日本ではあまり知られていないかもしれませんが、この国の平和と安定のために、国際社会の関与が紛争終結後から現在に至るまで続けられています。終戦による国連軍撤退後、平和維持の任務はNATO主導の多国籍軍に引き継がれ、2004年からはEU(欧州連合)の部隊EUFORがその任務を負っています。また、非軍事面にかかわる国際支援を行うために「上級代表」というポストが和平合意で設けられ、同国の内政の安定を図ってきています。
ウクライナとの共通点も
熾烈な民族紛争が起こったボスニア・ヘルツェゴヴィナと、現在、ロシアの軍事攻撃を受けているウクライナでは、国際社会の支援について以上のような違いがあるのですが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナもNATOとEUへの加盟を熱望していながら、加盟がまだかなえられていないという点ではウクライナと同様です。強力な集団保障の枠組みに入って平和を脅かすものから守られたいという思いは、国家としてだけでなく、これらの国々に暮らす一般の人々の切実なる希望としても共通するものです。
ただ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、これまでNATOとEUのメンバーにはなっていないものの、NATO、EUを含めた国際支援の体制が国内に築かれていますから、これは、ウクライナの脆弱な平和を国際社会が協力して守る一つのモデルとして、今後、参考になるかもしれません。
侵攻の影響で脅かされる平和
とはいえ、民族紛争終結後から続けられてきたボスニア・ヘルツェゴヴィナでのこの国際的な集団支援体制にも、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻の影響が出ています。ロシアの軍事侵攻が始まると、EUはボスニア・ヘルツェゴヴィナ在留のEU部隊の人数を倍増することをいち早く決定しました。同国の分割を主張するセルビア系勢力がロシアの支援を受けて活動を活発化させることへの警戒からです。しかし、この部隊の任期は今年11月までとなっており、延長については国連の安全保障理事会の承認が必要なため、ロシアが拒否権を使う恐れが現実的に出てきています。
さらに、在ボスニア・ヘルツェゴヴィナのロシア大使は、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナがNATOに加盟するなら、ロシアはウクライナ同様に対応するだろう」という主旨の発言をしています。また、ウクライナ侵攻後、ロシアは国際的取り決めであるボスニア・ヘルツェゴヴィナの上級代表事務所への分担金の支払いを止めるという動きに出ています。
「ロシアの軍事侵攻はウクライナだけでは終わらない。次はモルドヴァとジョージアだ」という指摘がありますが、さらに離れた東欧のオシムさんの母国にも、平和への脅威がこのように迫ってきています。民族対立に翻弄されながらも融和に向けて奔走され、素晴らしいサッカー人生を生き抜かれたオシムさん。ウクライナで繰り返されている「ジェノサイド」の惨禍に、オシムさんはどのような想いを抱かれていらっしゃったのでしょうか。そして今、再び脅かされそうな母国の平和をどれだけ憂いていらっしゃったのでしょうか。遺された言葉があるのなら聞かせてほしいと思う方は、きっとたくさんいることでしょう。
文と写真・晏生莉衣(Marii Anjo)
教育学博士。20年以上にわたり、海外研究調査や国際協力活動に従事。平和構築関連の研究や国際交流・異文化理解に関するコンサルタントを行っている。近著に国際貢献を考える『他国防衛ミッション』(大学教育出版)。