ようこそ、“好芸家”の世界へ。
「古典芸能は格式が高くてむずかしそう……」そんな思いを持った方が多いのではないだろうか。それは古典芸能そのものが持つ独特の魅力が、みなさんに伝わりきっていないからである。この連載は、明日誰かに思わず話したくなるような、古典芸能の力・技・術(すべ)などの「魅力」や「見かた」にみなさんをめぐり合わせる、そんな使命をもって綴っていこうと思う。
さあ、あなたも好事家ならぬ“好芸家”の世界へ一歩を踏み出そう。
第2回目は歌舞伎の世界、とくに最も観客の目を引く「ケレン」の世界をご紹介しよう。
文/ムトウ・タロー
観客に好評だった「ケレン」
歌舞伎は、ストーリーを頭で理解する前に、視覚で楽しめる数多くの「見どころ」がある。舞台に現れる絢爛豪華な衣装や舞台美術、そして立方(男役)の豪快さや、女形の可憐さや優雅さなどだ。
それらを引き立て、観客を熱狂させる数多くの仕掛けや演出を、歌舞伎俳優たちは長きにわたり生み出してきた。そのひとつが、「ケレン」である。
今日でも「ケレン味」という言葉が時折使われる。それは「ごまかし」や「ウケ狙い」というような意味を持ち、必ずしも良い印象を持たれる言葉ではない。
歌舞伎のケレンもまた、人々を驚かせる見世物的な要素が強いせいか、ネガティブなイメージがもたれていた。そのため過去には「芝居の本質に則っていない、歌舞伎の本流の芸ではない」というような批判が幾度もされた。やりたがらない俳優、ケレンを取り入れる俳優を露骨に批判する俳優もいたほどだ。
しかしそれでも、今日までケレンの作品は数多く残っている。当時の批評とは異なり、時代を超えて観客に人気があることの証拠ではなないだろうか。
ケレンは俳優の表現の幅を広げる
歌舞伎の物語に出てくるキャラクターは、もちろん人間以外もある。超人的な能力を持った者、動物の化身、神話のなかの存在、おどろおどろしい亡霊などなど。
俳優がそのような存在を演じるためには、通常の人間同様の演出ではキャラクターの個性を存分に表現することはできない。このような時にケレンが大いに活かされるのである。
たとえば歌舞伎三大名作の一つ『義経千本桜』の名場面「川面法源館(かわつらほうげんやかた)の場」。
源義経の忠臣・佐藤忠信に化けた白狐、通称「狐忠信」が、亡き親狐の皮で作られた小鼓の音に聞き惚れ、正体を現す。忠信に化けていた理由を述べ、義経から鼓を与えられた白狐は、親子の再会を喜ぶかのように小鼓とじゃれ合う。
そのクライマックスはケレンの代表的演出である「宙乗り」(挿図1)。小鼓を叩きながら天へと昇っていく狐の姿をワイヤーアクションで観客席の上を通って見せていく。
ほかには、「早替り」という演出もある。怪談物の人気作『東海道四谷怪談』「隠亡堀の場」(挿図2)がその代表で、俳優が着替えも含め一人二役を一瞬で演じ分けるシーンがある。
主人公・民谷伊右衛門が、妻であるお岩と離縁して新妻を迎えるため、お岩に毒を盛らせる。一方、伊右衛門の手伝いをする小仏小平を、民谷家に伝わる秘薬を盗もうとした罪で惨殺。伊右衛門がふたりの亡霊に悩まされるシーンで早替りが行われている。
また、『伊達の十役』という演目では、一人の俳優が複数役を演じているが、早替りのスピード感に圧倒される。花道などで向かい合ってくる別の俳優と重なり合って、一瞬で別の役に代わる技は、稽古の映像を見てもそのトリックが分からないほど、熟練の技と言っていい。
極めつけは「葛籠抜け」。花道に置かれた一つの葛籠がゆらゆらと浮き上がる。葛籠の中から現れるのは、天下の大泥棒・石川五右衛門。人間の身体より小さい葛籠から五右衛門が出てきたかのように見せるために、葛籠に特殊な細工を施した大仕掛け。華麗で巧みな飛び出しで観客の視点を一身に集め、空中で見得を切る五右衛門を、万雷の拍手が包んでいく。
ケレンは歌舞伎俳優の技量あってこそ
もちろん、ケレンはただ仕掛けを駆使するものというだけではない。その技を完璧なまでに己の体に落とし込む為に日々稽古を重ねている歌舞伎俳優たちの磨き上げられた身体があってこその芸なのだ。
仕掛けの凄さだけではなく、一歩間違えば危険に晒されるこの芸に挑み、その仕掛けをいとも容易く見せる俳優たちのその姿勢こそ、拍手喝采が送られるのだ。
伝統を受け継ぎながらも、常にエンターテインメントの要素を失わず、観客の歓声にこたえる歌舞伎の姿勢を体現しているものこそ、この「ケレン」味あふれる綺羅星の如き作品の数々なのである。
文/ムトウ・タロー
文化芸術コラムニスト、東京藝術大学大学院で日本美学を専攻。これまで『ミセス』(文化出版局)で古典芸能コラムを連載、数多くの古典芸能関係者にインタビューを行う。