昔より 主(あるじ)を討つ身(内海)の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前(秀吉のこと)
天正11年(1583)5月、織田信長の三男信孝は尾張国知多郡野間の大御堂寺(愛知県美浜町)で切腹して果てた。わずか26歳だった。冒頭の歌は、平安時代末、同所で源義朝が家来長田忠致に暗殺されたが、源頼朝が父の敵を討った故事を引いたもので、主筋の自分を家来である秀吉が討とうとしているが、同様に必ずや報いをうけるであろうと、激しい呪いを込めた信孝の時世の句である。
筆者は、大御堂寺にこれまで何度も訪れているが、いつも気になるのが信孝のことである。安養院には、信孝が切腹した時に投げつけた腸が当たってついた血痕の残る掛け軸や、切腹したときに使用した短刀が伝存していると聞く。彼の墓は、義朝の墓の近くにひっそりとたたずんでいる(写真)。なお首塚といわれるものは、伊勢国関の福蔵寺(三重県亀山市)に存在する。
信孝は、薄幸の武将である。信雄より20日ほど早く誕生したにもかかわらず、長男信忠と同腹の信雄に次男の座を譲った。本能寺の変直前まで、信忠が美濃一国、信雄が名門北畠氏を継いで南伊勢・志摩・南伊賀・東大和を領有したのに対して、伊勢国の名族神戸氏に養子入りしたものの河曲・鈴鹿の二郡しか与えられなかった。
信長は、長男・次男と三男以下は明確に差別したのだ。自然、信孝は信雄に対して激しいライバル心をもたざるをえなかったと想像する。神戸(三重県鈴鹿市)では、金箔瓦を葺く五層天守を中心とする壮麗な近世城郭を築城し、城下町を整備して楽市とするなど善政を敷いたことが今に伝わる。
【6月2日未明に本能寺の変が勃発。次ページに続きます】