能登半島に舞台を移した『サライ』の好評連載の「半島をゆく」。本誌では、歴史作家・安部龍太郎さんが「里山里海の伝統を守る人々」をテーマに浜士と呼ばれる塩作り職人や、珠洲(すず)焼についての歴史紀行をお届けしています。こちらでは同行取材をお願いしている三重大学教授で、戦国期がご専門の歴史学者・藤田達生さんによる歴史解説編です。本誌の連載と併せてお楽しみ下さい。

奥能登の旅の楽しみは、時国家(上・下両時国家、共に石川県輪島市)を訪れることにあった。同家は、日本史学者の故網野善彦氏(1928~2004年)が問い続けた非農業民論の着想を得た旧家である。たとえば、網野氏の名著『日本の歴史を読みなおす』(ちくま文芸文庫)では同家について詳しく紹介されている。

両時国家ともに、江戸時代以来の広大な豪農民家が現存しており、唐破風の玄関や格天井といい(上時国家、国名勝)、梁や大黒柱の太さといい(下時国家、重要文化財)、訪れた旅人の目を驚かせるものが多々ある。

時国家は、能登に流された平時忠(1130~1189年)の末裔といわれる。時忠とは、有名な「平家にあらずんば人にあらず」と豪語したとされる平清盛の義弟である。

姉の時子が清盛に嫁ぎ、妹の滋子は後白河天皇の后になって後の高倉天皇を生んでおり、自らも昇進を重ねて正二位権大納言にまでなっているから、平家の絶頂期を代表する人物ということができる。

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ところが、平家が壇ノ浦で敗戦したため人生が暗転する。捕虜となった時忠は、息女(蕨姫)を源義経に嫁がせるなど保身を試みたが状況は悪化するばかりで、結局は奥能登への配流となる。彼は現在の珠洲市大谷に隠棲したと伝わり、国道249号線沿いに一族の墓所(石川県指定史跡)があり、現在も時忠の子孫といわれる則貞家の人々に手篤く守られている。

義経が都を追われて奥州平泉に下る際、同所を訪れたともいわれ、現在も北陸地域においては義経に関する上陸地点や海難を避けるための船隠しの伝承も多々ある。なお時忠の子息が時国であり、能登で土着するにあたりこの実名を姓としたと伝わる。

時国家を訪れて筆者が着目したのは、山・川・海いずれもが近いということである。

屋敷の後ろには岩倉山が広がり、同家が用益権を行使した。したがって近辺の海岸で盛んだった揚浜式塩田に関わる人々は、同家から塩竈に必要な薪を購入したという。なお、近隣の「道の駅すず塩田村」(珠洲市)では国内唯一といわれる揚浜式塩田が営まれているが、そこでは浜士たちの厳しい仕事ぶりと塩のうまさを知ることができた。

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川とは、屋敷の前を流れる町野川である。時国家は同川の下流域および河口港に勢力を張り、廻船業にも手を染めていた。海とは、江戸時代に時国家が北前船を五艘も所有し、大坂から日本海経由で北海道の松前までの航路を使って、手広く商売をおこなっていたことである。

江戸時代の時国家は豪農として百姓身分に属したが、農業のほか製塩業や廻船業など実に幅広く事業に取り組んでいた。私たちは、江戸時代といえば士農工商という厳格な身分制度のもと、農民=百姓と刷り込まれてきた。網野氏は、時国家を非農業部門を中心に活躍する百姓の代表的なケースとして重視し、著書でもたびたび取り上げた。

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上時国家の奥様あやこさんからは、興味深いお話をお聞きすることができた。「江戸時代の当家の屋敷は、河口から300メートル程さかのぼった所にあり、大船の荷物を小舟に移して運び込んでいたようです」。 現在の屋敷は、水害を避けるために天保2年(1831)年に丘の上に建造したものである。

母屋には所狭しと高級な骨董品の数々が展示されており、屋敷地の奥には立派な蔵が建ち並んでいることから、往時の繁栄ぶりを十分に偲ぶことができる。
中世流通の結節点だった半島

旅の楽しみの最後は、奥能登を代表する焼き物である珠洲焼について学ぶことだった。

珠洲焼は、素朴な須恵器の技法を伝えた焼き物で、12世紀後半から15世紀末頃までの間、現在の石川県珠洲市付近で大量に生産された。

同市の珠洲焼資料館では、珠洲が知多半島に匹敵する日本海側最大の陶器生産地だったことを学んだが、中世の時国家もその流通に関与したのだろうかと想像した。近年の発掘成果によると、国史跡となった北海道の勝山館(北海道檜山郡上ノ国町、松前氏の祖である武田信広が、15世紀後半に築いた山城)に関連する遺物として、市街地の下層から13世紀の玖珠焼が出土するという。

珠洲焼の壺には、しばしば「大」の字を裏返しに書いていることがある。それは吉祥文字といって、壺を使用した人に長命富貴がもたらされることを念じて刻み込んだといわれ、常滑焼にもよくみられるそうである。

それにしても不思議である。「半島をゆく」の第1回目の訪問先である知多半島でも、源義朝伝承と常滑焼が重要テーマだった。源平の貴種流離譚の多くは、流通の結節点に分布している。そこに日本を代表する焼き物が生産されたのは、どうしてだろうか。

もちろん良質な粘土層が大量に分布しているというのが、前提条件ではある。常滑焼や珠洲焼の生産地と出荷したとされる湊は指呼の間にある。仮説の域を出ないが、重量のかさむ焼き物は船舶にバラスト(船のバランスを取るために積み込む底荷)として利用されていたのではないかと筆者は考えている。

中世の海運を担った和船には、多種の商品が積まれた。大型の専用船などない時代に少しでも多くの品物を積載するためには、バラストがわりになる商品が必要になった。それが太平洋海運における常滑焼であり、日本間海運における玖珠焼だったのではあるまいか。能登半島も知多半島も日本の中心部に突き出た半島で、それぞれの海域における流通の結節点に位置づけられる。

大型化を遂げた江戸時代の北前船では、バラストとして石造製品が積まれたそうであるが、小型の中世和船では焼き物がそれに相当したのではあるまいか。おそらく、流通の結節点における源平流離譚と良質な焼き物という図式は、今後の「半島をゆく」の旅でも何度も確認されることになるだろう。 最後に、網野氏の奥能登に関係する至言をご紹介したい。

「中世・近世の奥能登が日本海の海上交通の最重要基地として、鉄、鋳物、玖珠焼、塩、炭、そして漆器など多彩な非農業的生産物の広域的な交易を通じて、貨幣的な富に即してはきわめて豊かな一面をもっていた」

「むしろ奥能登が非農業的な生産に関しては、時代の最先端をいく先進地域であったがゆえに、水田についてはある限度以上、開発する必要もなく、中世のあり方を大切に保存したまま、近代、現代にまでいたったとみるのが、おそらく事実に即しているのではなかろうか」(『日本社会再考』小学館)。

現在ではまったく鄙びた半島の港町には、実はかつて東アジア世界と直接結びつく繁栄の時代があった。海や川そして沼や湖、古来、人々はこれらを利用して船によって深く結ばれていた。無論、そこには国境もなかった。

奥能登と朝鮮半島や中国は存外近かったのであり、海の道を介した交易が長らく続いていたに相違ないのである。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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