6月2日未明に本能寺の変が勃発

天正10年5月、信孝は信長から四国平定後に讃岐国主とすることを言い渡された。大いに勇んで念願の国主となるべく渡海のため大坂に軍隊を結集した信孝であったが、出陣直前の6月2日未明に本能寺の変が勃発してしまう。

弔い合戦を挑むには、もっともよい位置にいたにもかかわらず、パニックに陥った家臣団が総崩れとなってしまい身動きがとれなかった。明智光秀と対戦した山崎の戦いには、秀吉に総大将として祭り上げられたが、戦後の清須会議の結果、信忠の遺領美濃を得たものの、信長の後継者を約束された三法師(信忠子息、後の秀信)の後見人に留まった。

信孝が天下人をめざしたのは、この時のことである。親しかった柴田勝家との絆を深めるため、お市の方の再嫁を斡旋したという。そして三法師を抱えて放さず、印文「一剣平天下(いっけんてんかをやすんず)」の印章を使用するようになる。信長の「天下布武」印を意識したものである。

しかし天正10年12月、事態を憂慮した秀吉によって岐阜城を包囲され降伏し、三法師を取り上げられたうえ、生母や娘までも人質として奪われてしまう。翌年4月、賤ケ岳の戦いが勃発し信孝も挙兵するが、頼みの綱の柴田勝家や滝川一益はあっけなく敗退した。人質となった生母や娘は、秀吉によって無残にも即座に処刑されてしまい、自らはライバル信雄の勧告を受け岐阜城を明け渡して知多半島をめざしたのだった。

信孝の生前の評判は良好で、父と同様にキリシタンにも理解を示していたという。信長そして信忠の亡き後に織田家を存続させようと考えたとき、勝家のように信孝を擁立しようとするのは当然のことだろう。ところが秀吉は、暗愚とさえ言われた信雄を奉じたのである。

山崎の戦いが終わって以降、秀吉の行動は主家織田家の弱体化という方向で一貫しており、天正12年の小牧・長久手の戦いは、その総決算となった。秀吉は、自ら主君と位置づけた信雄に戦いを挑んだのである。

このように、秀吉は実に陰湿かつ好戦的な策謀家であるにもかかわらず、様々なパフォーマンスによって見事にその正体をカバーして今日に至っている。たとえば、ここ20年間、高等学校の教科書では秀吉の天下統一の政策基調を鵜呑みにして、なんと平和主義者として描かれてきたのだ(この点については拙著『天下統一』を参照されたい)。

敗残の将信孝が大御堂寺に落ち延びたとき、平治の乱で敗れ非業の死を遂げた源義朝に身を仮託したのである。対岸の神戸城、そして遙かに岐阜城を眺めつつ、短い悲運の人生を振り返ったことだろう。本能寺の変以降の推移からも、信孝は死に臨んで秀吉の正体を心底悟ったとみてよい。彼は、秀吉に利用されるだけ利用されたうえで、文字通り切り捨てられたのである。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』など著書多数。

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