■秀吉に抗して徹底的に殲滅された葛西領
牡鹿半島(宮城県)の約4百年前をふり返りたい。現在の中心都市・石巻市一帯は、中世を通じて葛西氏の所領だった。同氏は市内を見下ろす日和山(ひよりやま)に城を築いて天文年間まで本拠とし、葛西7郡(牡鹿・登米・本吉・磐井・胆沢・江刺・気仙の各郡)と桃生郡東部および栗原郡東北部も領した。
第17代当主の葛西晴信(かさい・はるのぶ)は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻撃に参陣しなかった咎(とが)で減封され、翌年になって改易された。葛西氏および隣接する大崎氏の旧臣と領民たちは、この秀吉による奥羽仕置(おうしゅうしおき)に対して葛西・大崎一揆を試みたが、鎮圧軍によって徹底的に殲滅(せんめつ)された。
それは、抵抗しない老若男女を含む撫で切りだったため、鎮圧された直後の葛西・大崎領は、天災と人災という違いはあれ、東日本大震災同様のきわめて重苦しい空気が充満したに違いない。生き残った人々も、豊臣軍の襲撃を恐れて、焼き払われた村々から離れて小屋掛けし、なんとか命をつないだのである。
それでは、その「仕置」の発端から説き起こそう。
■たった5日間で断行された秀吉の「仕置」
天正18年7月13日に小田原から出陣した秀吉は、同月26日に行軍途次の宇都宮で、伊達政宗や最上義光(もがみよしあき)を召し出し、奥羽仕置の手始めとして南部信直・佐竹義宣・岩城(いわき)常隆などの旧領を安堵した。そして8月9日には背炙(せあぶり)山を越えて、会津黒川に到着する。そこで臨済宗の古刹・興徳寺を御座所とし、わずか5日間の逗留中に奥羽仕置の基本政策を断行した。
小田原に遅参した政宗は、秀吉から会津黒川城を没収された。当城は、かつて葦名氏が居城としたが、秀吉の発令した停戦令を無視した政宗が、天正17年に摺上原(すりあげはら)の戦いに勝利し奪取して本城としていたからである。あわせて小田原に参陣しなかった葛西晴信をはじめ石川昭光・大崎義隆・白河義親などの諸大名の所領を没収し、奥羽の押えとして伊勢松坂城主だった蒲生氏郷に、陸奥国内の12郡と越後小川荘を与えた。
どうしても腑に落ちないのは、木村吉清の大抜擢である。かつて明智光秀の家臣だった吉清は、山崎の戦いの後に秀吉に仕えて取り立てられ5,000石を領有した。しかしこれといった戦功もなく、いきなり30万石もの大封を得て、葛西氏の本拠寺池城(宮城県登米市)に入城したのである。
結果的に、秀吉の人事は失敗だった。しかし彼にとっては想定内のことで、政宗を頂点に緩やかに進みつつあった奥羽の統一を、外圧によって短期間に実現するための捨て駒が必要だったのだ。名将氏郷を会津に置いただけでは、秀吉を中心とする統一など実現しないとみたからである。
■厳格無比な仕置への抵抗
天正18年8月から翌19年にかけて、奥羽では太閤検地と刀狩が強行される。検地については、既に秀吉が天正18年8月10日に片桐且元らに基本原則を指令し、浅野長吉に厳格な執行を命じていた。
「仕置に反対する者がいたなら、一郷も二郷もことごとくなで切りせよ。六十余州にかたく命じる。山の奥、海は櫓櫂(ろかい)の続く限り、念を入れて執行するように。いささかなりとも手を抜くことがあれば、私が直に出向いて厳命を申し付ける」との有名なくだりは、この時期に発せられた秀吉朱印状中の文言である。
しかし、仕置の執行によって旧葛西・大崎領の一揆から和賀・稗貫(ひえぬき)一揆を経て九戸政実の決起に至る大規模な抵抗運動が勃発する。地の利のない氏郷にとって、葛西・大崎一揆は当初から苦戦の予測される事件だった。この一揆は、奥羽地域における一連の抵抗運動のなかでも最大級の規模で展開した。しかも政宗が一揆に荷担する動きさえみせており、氏郷はそれにも対処せねばならなかった。
【広がる一揆にひるむ秀吉勢。次ページに続きます】