文/藤田達生(三重大学教授)
大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公は、明智光秀である。
光秀といえば、武将としてはもっとも不名誉な、「逆臣」という烙印を押されてきた人物であるから、驚いた読者諸賢も少なくなかったのではなかろうか。
これまで大河ドラマに登場する光秀は、記憶の範囲内ではあるが、線が細く本能寺の変に至る過程で精神的に追い込まれてゆくように描かれることが多かった。これに対して、秀吉は一生を通じて豪放磊落に描かれてきたのではなかろうか。
二人の関係は、一代の逆臣と英雄として、まさに陰と陽というように、対照的に理解されてきたのである。
拙著『明智光秀伝―本能寺の変に至る派閥力学』では、そのような評価を根底から疑った。教科書的な通説では、元亀4年(1576)7月の槇島城合戦における将軍足利義昭の敗退を室町幕府崩壊の瞬間とみて、その後の信長包囲網の中枢にあった義昭には、まったく関心がない。改元した天正元年から本能寺の変の勃発する天正10年6月までを、義昭を追放した天下人信長の時代とするのである。
封建時代の政治史研究の基本は、武家の棟梁たる将軍を中心に描くことにある。通説によると、義昭の兄である13代将軍義輝まではその原則は維持されているが、その後は信長へとブレてしまうのである。多くの同時代人からは、あくまでも正統は亡命中の現職将軍の義昭であって、信長こそ将軍を利用した逆臣であるとみられていた、と筆者は判断している。戦国時代の将軍の亡命は、常態であり珍しくなかったからである。
■秀吉は織田家から権力を簒奪したのか?
光秀は、天正8年には信長の意向を受けて毛利氏と講和交渉に入った。そこで信長からは、旧主義昭を「西国の公方」として許すという条件が示されている。ようやく、信長と義昭の和解が実現する運びとなったのである。ところが、政治生命をかけてそれを覆したのは秀吉だった。
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