和解が成立すれば、毛利氏と対戦していた自らの地位が危うくなると判断した秀吉は、但馬統一戦から因幡鳥取城攻めを強行した。その結果、吉川元春が救援軍を送ったため、実現寸前にあった講和は水泡に帰し、秀吉は危機を回避したのである。
■光秀の最大の敗因は、秀吉が勝負を仕掛けることを予想できなかったこと
天正9年以降、信長に取り入った秀吉は、光秀を徹底的に追い込んでゆく。その延長線上に、本能寺の変があった。天正10年6月2日未明の変の情報が、直線距離にして200キロ以上離れた備中高松(岡山市)の秀吉陣所に6月3日夜半に届いたのである。
あらかじめ変を予想し、何人かの屈強な使者を配置するぐらいでないと、このような短時間の情報伝達は無理である。柴田勝家ら北国衆も、滝川一益ら関東衆も、情報収集ははるかに遅かった。
しかもその後、秀吉は織田家の復活を一貫して阻んでいる。中国大返しを成功させた後、織田信孝(信長三男)が籠城する大坂城には入城せず、自らが最も早く信長の弔い合戦に駆けつけたように京都めざして進軍したことは大きかった。光秀の最大の敗因は、秀吉が天下を狙って勝負を仕掛けてくるとは予想していなかったことにある。
天正11年の賤ケ岳の戦いでは、織田信雄(信長次男)を使って信孝を尾張大御堂寺(愛知県美浜町)で自刃させ、翌天正12年の小牧・長久手の戦いにおいては、織田家の家督となった信雄を集中攻撃して降伏させた。さらに天正18年の北条氏攻撃の後、織田家の本国尾張からの国替を拒否した信雄を改易している。
このように、恩義ある主家を一貫して否定したのである。織田家以外なら、出自が低かった秀吉を軽輩から城持ち重臣にまで取り立てたりはしなかっただろう。信長のみは、秀吉の非凡さを見抜き、周囲からの批判を抑えて活躍の場を次々と与えたのである。このことは、かつて今川家への仕官に失敗した秀吉には、痛いほどわかっていたはずだ。
ところが、そののち現代に至るまで、秀吉が逆臣と誹られることはなかった。徹底的に追い詰められた光秀は、旧主義昭を奉じて信長を討った。幕臣らからすれば、光秀こそ逆臣を討滅し伝統国家の存続に命を捧げた英雄だった。それに対して、どのような見方をしても、主家をないがしろにし続けた秀吉こそ、稀代の逆臣といわねばなるまい。
光秀と秀吉との違いは、一体何だろうか。それは、唯一、天下人となったか否かのみである。巷間の評価とは、かくも虚しいものなのである。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。