文/安田清人(歴史書籍編集プロダクション・三猿舎代表)
これまで、NHK大河ドラマでは15の作品で明智光秀が登場した。
なかでも一般的な光秀のイメージ——実直で神経質でインテリで——ともっとも近かったのは『国盗り物語』(1973年)の近藤正臣演じる光秀だろう。
この「近藤光秀」が打ち出した「悩める光秀像」は、一つのフォーマットとなるほど印象的だった。
しかし、その29年後、「近藤光秀」のフォーマットを塗り替えるような新しい光秀が登場した。『利家とまつ』(2002年)で、ショーケンこと萩原健一が演じた光秀だ。
『利家とまつ』は、前田利家とその妻「まつ」の二人が主人公という異色の作品で、その主人公に唐沢寿明と松嶋菜々子という、人気絶頂の若手俳優・女優を起用したことや、松嶋と結婚したばかりの、これも学園ドラマなどで人気を確かなものとしていた反町隆史を主人公夫婦の上司である織田信長役に起用するなど、世間の話題を集める要素が「これでもか」とばかりに盛り込まれていた作品だった。
光秀に触れる前に、信長に触れておこう。反町演じる信長は、いかにも信長然とした威厳と狂気、才気と非情がないまぜとなったイメージをしっかり押さえながら、どこか人間臭い、「やさしさ」を随所に漂わせる人物造形だった。
脚本を担当した大ベテランの竹山洋は、反町の信長を「やさしさが加わった今までにない信長像」と語っている。ドラマのタイトルが夫婦セットとなっていることで明らかなように、竹山は『利家とまつ』を単なる英雄譚として描くのではなく、その背後にある夫婦、家庭の実像にしっかりと目を向けることで、書割りの英雄に新たな血を通わせようとしたのだと思う。
信長の「やさしさ」は、作り手の思いつきではない。豊臣秀吉は、その妻である「おね」とセットで、『利家とまつ』でも重要なパーツの一つだった。
その秀吉の女癖の悪さに閉口した「おね」が夫の不満を漏らしたところ、それを聞きつけた信長が、「おね」をなぐさめかつ諫めるという、実に気配りのきいた心憎い手紙を書いて送っている。「お前ほどの女に、あの秀吉が二度と巡り合うことはないのだから、短気を起こしてはいけないよ」。これは、ドラマの演出ではない。史実なのだ。
軍事カリスマ、専制君主、恐怖の大魔王……と、信長を形容する毒々しい言葉はいくらも目にするが、その一方で、家臣の奥さんに直にやさしい手紙を書いてやる。おいおい信長、まるで「理想の上司」じゃないか。反町信長の「やさしさ」は、おそらくこうした実話を下敷きにしたものだろう。
ドラマでも小説でも、歴史上の人物を描くとき、「まったく新しい〇〇像」を標榜する例がしばしば見られる。しかし、既存の人物像(イメージ)の逆を行くだけの薄っぺらな「逆張り」では、説得力を持つことはできない。
制作陣の「新たな人物像を俺が造った」という功名心が透けて見えて、辟易する場合さえある。しかし、『利家とまつ』の信長像は、従来のイメージをしっかり消化しつつ、史実に立脚した新たな解釈を付与することで「やさしさをはらんだ信長」「血の通った信長」を魅力的に描くことができたのだ。フィクションはフィクション。しかし実在の人物を題材とするフィクションの場合、やはり「事実」から抽出した要素は、フィクションのなかで独特の「強さ」を発揮するものだ。
【信長に もの申す光秀の新しさ。次ページに続きます】