シャンソンを歌い続けて半世紀余り。芝居仕立てのステージを支えるのは、作り置きしている“素”から作る野菜スープだ。
【伊東はじめさんの定番・朝めし自慢】
2015年11月13日、フランスで起きたパリ同時多発テロ事件。その時、フランス全土の人たちが 手を繋ぎ、犠牲者に捧げた歌がジャック・ブレル(1929~78)の『愛しかない時』であった。
そのブレルを歌い続ける日本のシャンソン歌手がいる。伊東はじめさんである。
「『愛しかない時』は僕のCDでは『この地球(ホシ)の果てまで』というタイトルで収録していますが、ブレルという人は愛や死、また人生における苦闘などを高らかに歌った。ブレルが逝った49歳という年齢を僕はとうに超えたけれど、彼の歌の根底にあった人間愛を、これからも歌で表現していきたい」
昭和22年、鹿児島生まれ。小学5年の時、歌唱コンクールで優勝。セルロイド盤のレコードに録音したのが、優勝曲の『旅愁』だった。歌うことを意識した最初である。
高校3年の夏、教育者だった父がピアノを買ってくれた。受験までの3~4か月、猛勉強して東邦音楽大学声楽科に合格。深緑夏代さんに師事してシャンソンを歌い始め、第4・第5回シャンソンコンクールで入賞を果たした。
「シャンソン喫茶『銀巴里』で初めて歌ったのが20歳の時。ブレルの歌に出会ったのもこの頃です」
昭和44年、コロムビアレコードよりプロデビュー。22歳だった。あれから半世紀、シャンソン歌手として、またミュージカル俳優として第一線で活躍し続けてきた。
喉のために刺激物はご法度
「ブレルの作品は、体力がないと歌いきれません」
という伊東さんの健康づくりは、まず歩くこと。自宅から個人スタジオへは徒歩通勤。毎日、往復4kmを7000歩ほどで歩くという。
加えて、ステージでは立ち居振る舞いなど、視覚的要素も大きい。弟子への振り付けや、自らのダンスレッスンでも汗を流す。
食事は3食摂るが、昼はおにぎりや蕎麦と軽め。朝食には伊東家特製の野菜スープを欠かさない。
「野菜スープの“素(もと)”を4~5日分作り置きし、日替わりでトマト味やカレー味、また牛乳を入れたりポーチドエッグを落としたりします」(さくら夫人)
酒、煙草はやらず、山葵や生姜などの刺激物はご法度。それもこれも喉を労わってのことである。
日本のシャンソン界を元気づけ、確実に後進へと継承したい
深緑夏代さんに師事していた頃、宝塚音楽学校の歌唱指導をする師に同行して、ピアノ伴奏者を務めていた時期がある。20代の頃だ。
「年齢もさほど変わらない鳳蘭さんや麻実れいさんらに囲まれて、キーチェンジをしながら伴奏をするのは大変なこと。本気で伴奏のためのピアノ練習をしました。僕にとって、この経験が大きな宝物になりました」
というのもコンサートライブの傍ら、個人スタジオを中心に都内近郊の13のカルチャー教室で指導に当たっているからだ。
伊東さんが歌うシャンソンは、日本語である。自分自身の感情をのせやすい、生活感のある言葉で表現することで、説得力や伝達力が出てくると思うからだ。その日本語詞(訳詞)の多くは、夫人のさくらさんが手がけている。ふたりの阿吽の呼吸で、無駄も無理もない、自然な日本語が特徴だ。
高英男さんや芦野宏さん、石井好子さんらが活躍した昭和30~40年代、日本のシャンソン界は活気があった。その勢いを取り戻し、ブレルを歌い継いでくれる後進を育てるのが使命である。
取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
※この記事は『サライ』本誌2020年8月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。