【サライ・インタビュー】

境田稔信さん(校正者、辞書研究家)

――『広辞苑』『大辞林』『新明解国語辞典』の校正を担当――

「辞書の歴史は、言葉の歴史です」

境田さんの住まいは、聞きしに勝る辞書屋敷だ。江戸から明治・大正・昭和・平成の名だたる辞書が隙なく鎮まっている。その数7000冊。収集癖はなお加速している。

※この記事は『サライ』本誌2020年8月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。

──家の中が辞書で埋まっています。

「辞書が6000冊といっていたのが3年ほど前のことです。それまでは2日に1冊ペースで増え続けて、去年は1日に2冊のペースで増えています。以前は古書店を探し歩いていたわけですが、いまはインターネットで探しやすくなりましたから。ヤフオクとかメルカリなどのサイトも見て、つい買ってしまいます。ここ1年で700冊は増えているので、ぜんぶで7000冊を優に超えているんじゃないでしょうか。書架が30以上あっても足りません。玄関から床に積み上がって大変なことになっています(笑)」

──なぜ辞書を集めているのですか。

「私は校正者です。文字や言葉、事象などをひとつひとつ確認するという仕事柄、一番頼りになるのが辞書です。編集プロダクションで働いていた20代前半の頃は、当時住んでいた千葉市の中央図書館へ辞書を調べに行ったものです。でも、土曜は開館時間が短くて、日曜は休館でした。それなら、自分で辞書を買い揃えたほうがいいと思ったんです」

──それにしても、これほど必要ですか。

「まあ、最初は数冊あればいいと思っていたんですが、より正確を期すために、いくつも見比べながら引いているうち、それぞれの辞書がもつ〝個性〟に面白みを感じて買い集めるようになったんですよ。現在の辞書だけでは納得できない、疑問が解けない。じゃあ、昔の辞書にはどう載っていたのか、それがどう変化してきたのか。近代的な辞書が出る明治まで遡り、さらに江戸時代の和本にも手を出すという始末で、言葉の迷宮にどんどん入り込んでいった結果が、この辞書の山です」

──同じ辞書が何十冊も並んでいますが。

「最初の近代的国語辞典『言海』だけで270冊。でも、みな同じではないんです。奥付が同じ初版でも、間違いを修正していたり、項目が入れ替わっていたりします。大形、小形、中形、寸珍本があり、分冊本とか表紙の色や紙質が違うものもあります。見出しは、訓読みの和語と音読みの漢語で活字の種類を変えてあるのが『言海』の特徴のひとつです。品切れ中の新潮社の国語辞典は、和語の見出しが“ひらがな”、漢語の見出しは“カタカナ”でした。つまり、漢語は外来語と同じ扱いです。現在、和語と漢語で見出しの書体を変えているのは、小学館の『新選国語辞典』だけです。一般の利用者は、おそらく気が付かないと思いますけど(笑)」

──一番高額だった辞書はどれですか。

「今から300年ほど前、清の4代皇帝・康熙帝命によってつくられた『康熙字典』です。近代以前の最大規模の字書で、全40巻を50万円で買いました。お金を出せば買えるならいいんですよ。20代前半の頃、『言海』第二版の上下2分冊を古書店で見つけたんですが、店主に“高いよ”といわれて、そのときは値段も聞かずにあきらめてしまった。以来、なかなか同じものは見つからず、再会できたのは30年近く経ってからです。金額は10万円、初版4分冊と同じ値段でした。辞書集めが加速したのは、26歳でフリーの校正者になってからです。20歳の頃から神保町(東京)の古書店へ通うのが日課になり、そこで明治から現代までの、見たことのない辞書が次々と見つかりました。まるでジグソーパズルのピースがどんどん埋まってゆくような楽しい感覚といえばいいでしょうか。仕事をするために辞書を買うのか、辞書を買うために仕事をするのか、そんな日々が今も続いています」

『康熙字典』。清の4代皇帝である康熙帝の勅命により、30名の学者が5年あまりで編纂。4万7035字を収めて、1716年に完成。
写真の『康熙字典』は300年前の刊行になる最古級の唐本。

──辞書に投じた総額も大きそうですね。

「30歳になる頃、年間250万円を辞書集めに費やしたことがあるんですけど。最近は金額がもっと増えているようで、正確な数字を知るのが怖いんですよ(笑)。
でも、辞書の世界を渉猟することで、知らない事柄に出会い、知的好奇心が満たされるのが、たまらなく魅力的なんです。辞書を集めることで、江戸時代も含めて、言葉が現代までどのように変化してきたのかがわかります。また、辞書の歴史を追うと、文字や言葉だけでなく、印刷の方式とか、用紙・製本、装丁、組版、活字デザインなど、本を構成する要素の変遷もかなり見えてきます」

「『広辞苑』第四版で新項目の〔すっぴん〕を提案したのですが…」

辞書に分け入って見えるものは多い。 「印刷文字の主流は小さくても読みやすい明朝体、小学校の教科書は手書きに近い楷書体が主流で、小学生向けの漢字辞典も楷書体が基本的なんです」

──江戸時代の辞書もお持ちなのですね。

「字の書き方を知るための近世の字引は“節用集”といいますが、いろは順+音数順の配列になっています。明治期は、ほとんど五十音順の辞書に変わりました。ところが、大正期には、いろは順がまた復活するんです。
明治はしっかりした辞書が多い。大正は小型で手軽なものが増えますが、結構、いい加減な内容のものもあったりします(笑)」

──大正期に、いろは順に戻った理由は?

「庶民には“いろは”のほうがまだ身近だったんでしょうね。同じ頃、ローマ字引きの辞書も出ています。なぜかというと、往時の辞書は旧仮名遣いを正確に知っていなければ引きづらかった。和語はまだいいのですが、漢語も旧仮名遣いなので、〔高等学校〕を引こうとすると、〔こうとう…〕で引くのか〔かうとう…〕で引くのか、何かとややこしい。ですから、昭和に入ると、今に近い“発音引き”が主流になるんです」

──辞書も時代の変化を映している。

「漢字表記の変化も面白いですよ。〔土地かん〕というとき、新聞社の多くは“土地勘”を使っていて、読売新聞だけが“土地鑑”と表記している。国語辞典には、その両方がたいてい載っています。日本新聞協会の『新聞用語集』は、“土地勘”としながら、“本来の表記は土地鑑”と書いています。でも私は、かつて警察がつくった用語集(非売品)に載っていた“土地関”が正しいと思っています。
その土地に関係があるからこそ、よく知っているわけです。もともと口でいっていた言葉だから、表記が定着しないまま、もう〔土地関〕では通用しなくなりました」

──そういう発見はいくつもありますか。

「いま、〔らち〕といえば、無理矢理に人を連れ去る意味ですよね。漢字では〔拉致〕と書きますが、本来は〔羅致〕と書いた。しかも悪い意味ではまったくなくて、人材を広く集めてくることです。時代でだんだん意味が変わって、表記や読み方も変化しました。〔しゅうせいえき〕には、〔修正液〕と〔修整液〕のふたつがあります。共同通信社では、修正液は文具、修整液は写真にと使い分けています。『三省堂国語辞典』は1960年の初版では〔修整液〕、それが2001年の第五版から〔修正液〕になりました」

──今は「修正液」が一般的なのですね。

「ええ。岩波の『広辞苑』も三省堂の『大辞林』も小学館の『大辞泉』も、みんな〔修正液〕になっています。じつは、その一番の理由は、1970年に日本で売り出された商品に“修正液”と表記されたからなんですよ。以来、刷毛で塗るボトルタイプに始まり、ペンタイプからテープ転写型まで、どの商品にも“修正”の字が使われて、それが一般的になってしまったんです」

──境田さんは辞書の校正もされています。

「あくまで校正ですから、辞書の中身には関わりませんが、余計なおせっかいをしたことがあります。岩波の『広辞苑』第四版の校正のとき、〔小岩井農場〕という新項目がありました。この農場は創設者・出資者の小野・岩崎・井上という3人の名字の1字ずつをとって“小岩井”なんです。そういう情報を入れてはどうかと提案して採用されました。
『広辞苑』第四版では、まだどの辞書にも載っていない〔すっぴん〕を加える提案をしたのですが、間に合いませんでした。当時、週刊誌の見出しに“すっぴん”がよく使われていたし『すっぴん』という名のグラビア雑誌も出ていました。そこで、『三省堂国語辞典』の見坊豪紀先生に直接、資料を添えてお手紙を出したんです。その結果、1992年の第四版に初めて〔すっぴん〕が載り、今では多くの国語辞典に載っています」

「『金色夜叉』には“!”“!!”“!!!”という3種の感嘆符が出てきます」

──辞書の編纂者と交流があったのですね。

「見坊先生が世話人のひとりだった、誰でも参加できる言葉の勉強会があって、初めて参加したときの講師が松井栄一先生でした。とりあえず名刺交換をして、後日、古書会館で偶然の再会を果たします。フリーになるまでの3年近く、幸運にも毎週のように喫茶店でいろいろな話を聞かせてもらえました」

平成元年、近代語研究会「近代日本語と辞書」の懇親会にて。30歳の境田さん(右)。 隣は小学館『日本国語大辞典』編纂の中心を担った国語学者の松井栄一氏。恩師である。

──いつもここで仕事をされているのですか。

「仕事部屋は別にあります。この部屋は書庫で、最初、独立したワンルームになる予定を、大家さんのご厚意で建築中にバス・トイレ・台所をつぶし、縦長の12畳に変わりました。壁をぶち抜いてつなげた、いちばん広い部屋が書庫になってしまったわけです(笑)」

辞書の狭間で校正・校閲作業。
「今は用字用語の校正だけではなく、事実確認の校閲に重点が移っています。場所、年月日、誰が何をやったという事実関係を細かく確認してゆきます」

──主役はあくまで辞書なのですね。

「はい。メインは辞書ですが、一次資料になる書籍や雑誌の類もありますよ。 尾崎紅葉の『金色夜叉』は1年がかりで30点、集められるだけ集めてみました。『金色夜叉』は表記が珍しい。例えば感嘆符です。
縦書きの会話のなかに、感嘆符ひとつの“!”、ふたつの“!!”、みっつの“!!!”が出てきます。さらに“?!”や〝“??”も。これらはまだ1字分の活字としてはなかったので、欧文の活字を組み合わせて使っている。明治の中頃にやっていたというのが面白いじゃないですか。
夏目漱石の『坊っちゃん』の題名の例を挙げれば、今は小書きの活字がありますが、昔はなかった。なのに、『坊っちやん』の“っ”は最初から小さい。これは捨て仮名といって、読み間違いを防ぐために補助的につけたものだったんです。“ぼうちゃん”と読まないように。でも、大正6年に出た全集からは『坊つちやん』で、“つ”も“や”も大きい」

──本当に細部まで踏み込むのですね。

「個人的な興味で、気になる言葉や表記が見つかると、昔から今に至る変遷はどうだったのか、その根拠を知って納得したいんです。
今は平仮名の“あいうえお”を小さく書く人が増え、“なんとかだなぁ”というふうに“あ”を“ぁ”にする。でも、これは現代仮名遣いにはない書き方なんです。
それを、なぜみんなが使い始めたのか。1978年にJISが日本語のコードを決めたとき、小書きの“ぁぃぅぇぉ”を入れたからです。片仮名には小書きの“ァィゥェォ”があり、パソコン入力をする際は、平仮名を変換して片仮名にする。そのためには小書きの“ぁぃぅぇぉ”もつくっておかないと変換できないので、JISが入れたわけです」

──本来は使ってはいけない?

「まあ、ブログとかメールとか、私的なものであれば構わないんですが、公的な書籍に使うのはどうでしょうか。でも、いまはベテラン作家でもどんどん使っています(笑)。
それから“だなー”と長音符号を使うのも変です。1字どころか漫画みたいに2字以上にのばしたり、“だな~”と書いたりする人さえいます。『三省堂国語辞典』は第七版から和語の見出しにも「あーあ」と長音符号を使うようになりました。どこまで認めるべきか悩みます。校正者に決定権はありませんので、保守的な立場で指摘するだけです」

──これからの目標は何でしょうか。

「だいぶ前から、辞書の歴史、国語辞典のウンチクを本にしませんかという話はあるんです。面白がって調べて書き留めたものを本気でまとめればいいわけですが、本業が忙しいから、なかなかできない。でも、いつぽっくり逝くかわからない歳になってきましたので、そろそろ気合を入れて書かないといけないとは思っています」

「言葉の形・意味・表記は常に変化します。たとえ小さな変化でも、そのつみ重ねが“今”をつくっている。言葉が辞書に載るということは一般社会に定着したということです」

境田稔信(さかいだ・としのぶ)
昭和34年、千葉県生まれ。高校卒業後、専門学校で校正・編集を学ぶ。編集プロダクションを経て26歳でフリーの校正者に。以後、書籍雑誌のほか、『広辞苑』『大辞林』『新明解国語辞典』『字通』『角川新字源』等の辞典の校正に多数携わる。日本エディタースクール講師、実践女子短大非常勤講師。共著・共編に『明治期国語辞書大系』(大空社)、『タイポグラフィの基礎』(誠文堂新光社)がある。

※この記事は『サライ』本誌2020年8月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

 

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