岩屋の町中を流れる茶間川
岩屋の町中を流れる茶間川

「あなたにとって、居心地の良い場所は?」とか「くつろげる場所は何処?」などと尋ねられた時、あなたは、どのようにお答えになるでしょう?

やはり、悩むことなく「自宅のリビング」あるいは「自分の部屋」と答える方が多いのでしょうか。愛車の運転席とお答えになる方もいらっしゃるかもしれませんし、中には、馴染みの店のカウンターなんて方も。

このように、改めて「居心地の良い場所」や「くつろげる場所」について考えてみると、意外に少ないことにお気付きになる方もいらっしゃるかもしれませんね。

特に、コロナ禍になってからというもの、「居心地の良い場所」や「くつろげる場所」を失ったという人も少なくないのではないかと思ったりもします。長年通っていた馴染みの店が、コロナ禍の影響でやむなく閉店となってしまい、寂しい思いをされている方もいらっしゃることでしょう。昭和世代にとって、そうした事は若い頃に比べ、骨身に堪える出来事で、下手をすると生活のリズムやサイクルまでもが崩れることになるかもしれません。別の例えをしますと「身体に小さな綻びができたような気分」でしょうか。

これが、けっこう尾を引くこともあって、ある程度長く生きている者にとって、日々の生活の中にある「当たり前の風景」というものが、如何に大切であるかを実感いたします。ですから、“昭和レトロが大ヒット”とか、“昭和の町並みを再現”などといったニュースを見聞きすると、妙な嬉しさを感じます。それは、おそらくは“昭和な雰囲気が漂う場所”に、潜在的な「居心地の良さ」というものを感じるからではなかろうかと思うのです。

今回、ご紹介する「懐かしき風景」は、明石海峡大橋の袂にある古い港町の風景です。どことなく“昭和な雰囲気”が漂う風景から、「居心地の良さ」のようなものを感じていただけたら幸いです。

失われる懐かしさが感じられる風景と、崩れてゆく地方の古い町並み

どこか懐かしさが感じられるような風景を求め、地方の町を巡っておりますと、朽ちた空き家を目にすることが多くなっています。そうしたことから、最近ニュースでしばしば見聞きする「空き家問題」の深刻さが垣間見えてきます。総務省の「平成30年住宅・土地統計調査」によると、2018年の全国の空き家は約849万戸。それが、2033年頃には空き家数が2,150万戸にまで膨れ上がり、全住宅の3戸に1戸が「空き家」になってしまうという推計もあるそうです。

本当にそうであるなら、やがて“懐かしさが感じられる町並み”など、観られなくなってしまうかもしれません。寂しい限りです。

空き家が目立つ商店街
空き家が目立つ地域も……

現在でも、町並みが保存されている地区を除けば、地方の町の景観は大きく崩れつつあるように思います。そうした傾向は、気まぐれで立ち寄った地方の小さな町でも顕著です。古いお屋敷や民家が取り壊され、所々更地(さらち)になっていたり、商店などは殆どが閉店。さらには、軒を連ねる家々は、殆ど人が住んでいないようにも見えます。
そうした町並みの中に、不釣り合いな感じで数軒の現代的な家屋が建っていたりする……。そうした景観からは、残念ながら残る印象は何も無いのです。

しかし、何故だかわかりませんが、古い町並みが比較的よく残っている地域もあります。今回、訪れた淡路島の岩屋地区もそうした町でした。

特に、国や県などから「町並み保存地区」に指定されているわけではないのですが、どこか昭和な雰囲気が感じられます。

昭和の風情が色濃く感じられる散髪屋さん
昭和の風情が色濃く感じられる散髪屋さん

かつて、瀬戸内の制海権が争われた戦略上の重要拠点「岩屋」、その歴史を紐解く

ここ岩屋は、淡路島の玄関口。当時としては、世界最長の吊り橋であった明石海峡大橋、開通(1998年4月5日)から、20年以上が経ちますが現在でも明石と岩屋間にはフェリーが就航しています。

岩屋の歴史は、実に興味深いものがあります。古代から瀬戸内海航路の要所であったようで、平安時代初期に編纂(へんさん)された「続日本紀(しょくにほんぎ)」にも、その地名が見られるそうです。

さらには、淡路島の最北端に位置する「松帆の浦」は、小倉百人一首(97番)に詠まれているほどの景勝地。その歌をご紹介しておきましょう。

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
     焼くや 藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ

現代語訳は「松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、私の身は、来てはくれない人を想って、恋い焦がれている」です。この歌を詠んだのは、権中納言定家(ごんちゅうなごんさだいえ)、皆様ご存知の藤原定家(1162〜1241)です。

藤原定家の肖像画

明石海峡を望む位置にある岩屋は、戦国期の頃から軍事的な重要地としての意味合いが濃くなり、砦や城のようなものが築かれたという記録も残ります。天正年間(1573~92)、摂津石山本願寺に立て篭もる顕如(けんにょ)を援助する毛利輝元は、強力な水軍を擁して海路より兵糧や武器・弾薬などの物資の供給を企図。しかし、その補給路を断とうとする織田軍は、毛利水軍との間で、数年に亘り激しい海戦を繰り広げます。

おそらく、第一次、第二次木津川口の戦いにおいても、瀬戸内海航路の制海権を掌握するため、岩屋は最重要拠点であったと思われます。

藤原定家の句碑
藤原定家の句碑

関ヶ原の戦い後、池田忠雄が淡路国の領主となったのを機に、岩屋三対山の頂上に新しく城を築いたという記録があります。その数年の後、由良に成山城を築き岩屋城は廃城となっています。

再び、岩屋が重要な役割を担うのが幕末期。開国を迫る外国船が渡来するようになると、徳島藩が岩屋の松帆などに砲台を築いたとされ、その遺構の一部が残されています。

そんな激動の日本史を見詰めてきた、港町岩屋を散策してみました。

今の残る幕末期の砲台趾
今も残る幕末期の砲台趾

海峡を渡る風には、昭和ノスタルジックな匂いが感じられる

対岸の明石と岩屋の間を結ぶ定期航路が開かれたのは、明治4年(1871)のことだとか。その後、長く淡路島の玄関口として発展を続けましたが、平成10年(1998)の明石海峡大橋の開通によって岩屋の環境は大きく変わることになります。

大橋の開通前までフェリーの利用者で賑わっていた町内も、人流が神戸淡路鳴門自動車道へと移り、やがて来島者から注目されなくなったようです。島内の彼方此方に、新しい観光施設ができる中、岩屋は大掛かりな観光開発もされることなく、昭和感の漂う町並みが残っています。

高台から望む岩屋港と町並み
高台から望む岩屋港と町並み

もともと、岩屋は海と山が狭まった地域で平らな土地が少なく、昭和ノスタルジックな感じの町並みは、国道28号線と並行して走る細い道の両側に残っています。食堂や喫茶店の雰囲気、電気店などの看板が残る昔懐かしい商店街は昭和30年代を彷彿とさせ、昭和生まれの人間にとっては居心地の良い感じ。その商店街から山側へと入り込む狭い路地には、古い木造住宅が折重ねられたように密集しており、漁師町の雰囲気が色濃く感じられます。

国道28号線と並行するようにある岩屋商店街への入り口
国道28号線と並行するようにある岩屋商店街への入り口

急斜面の途中にも、張り着くように家が立ち並んでおり、島国日本の原風景を観ることもできます。開通から20年以上が経って、美しい明石大橋の橋脚と昭和な感じの町並みは、今や岩屋の象徴的な風景。海峡を渡る風には、昔の昭和ノスタルジックな匂いを含んでいるような感じさえしました。

今も現役の銭湯
今も現役の銭湯

昭和レトロブームの影響か、若いカップルやグループが商店街の中を散策する姿を見掛けました。その姿を見ながら、町を衰退させないために必要なのは、紛れもなく「人流を呼び戻すこと」であると実感しました。

今や、神戸・大阪・京都から手軽なドライブ観光の島となった淡路。大手企業の本社機能も移転したことでリゾート感覚で住める地として注目されています。今後、移住する若い方たちが増えることを大いに期待したい。そして、できるなら真新しい家を建てず、古い佇まいの家を改築して住んでいただきたいと願うばかりです。

北淡路エリアにできた新しい観光施設
北淡路エリアにできた新しい観光施設

アクセス情報

所在地:〒656-2401 兵庫県淡路市岩屋
自動車:神戸淡路鳴門自動車道 淡路ICより約3分

取材・動画・撮影/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
ナレーション/敬太郎
京都メディアライン:https://kyotomedialine.com Facebook

 

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