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『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。

文/藤田達生(三重大学教授)

2日目も快晴で、宿所からは釣りを楽しむ太公望の一団が望めた。美しい敦賀湾は、古来人々に様々な恩恵をもたらしたのだ。そう言えば、9世紀頃に渤海からの使者を迎えた有名な松原客館は、気比の松原にあったそうだが、正確な位置はわかっていない。いずれにせよ、この湾内の要衝に設けられた迎賓館とみてよいだろう。敦賀には、11世紀前後に、外国人に関する記録が集中してみられるという。

国宝朝鮮鐘を蔵する常宮神社は、眼前に敦賀湾が広がる。

国宝朝鮮鐘を蔵する常宮神社は、眼前に敦賀湾が広がる。

当日、私たちが最初に訪れたのは、常宮神社だった。敦賀湾に面した神社である。元来、気比神社の摂社であり、江戸時代に独立して当地に遷座したという。まず向かったのは、戦前以来の国宝の朝鮮鐘が納められている収蔵庫である。この鐘は、文禄2年(1593)6月の晋州城の戦いに参陣した大谷吉継(あるいは加藤清正とも)が戦利品として朝鮮国から持ち帰り、慶長2年に豊臣秀吉の命令で吉継が当社に寄進した新羅鐘という。

その理由は、当社が神功皇后を祭神としていたことによる、と筆者は考える。秀吉は、対外戦争に臨んで士気を鼓舞するために神国思想を強調した。日本人のアイデンティティーを、仏教でも儒教でもなく、神道に求めたのだ。確かに、神国思想は蒙古襲来に際しても鼓舞されたのであるが、今度は対外出兵に際して主張されることになったのだ。

日本各地に盤踞していた武士団が、秀吉の命令によって豊臣大名のもと朝鮮半島に出兵し、長期にわたる遠征を余儀なくされたのである。方言のため意思の疎通も十分ではなかった彼らではあるが、記紀神話にもとづく神国思想は、異国の地に置かれた者同士が結束するために要請されたイデオロギーだった。

とりわけ、神功皇后が新羅出兵をおこない、朝鮮半島を服属下においたとされる「三韓征伐」は、もっとも受け入れられやすい物語だったに違いない。したがって、朝鮮とのつながりがある国際貿易都市・敦賀に鎮座する神功皇后を祭神とする常宮神社に着目して新羅鐘を寄進したというのは、うなずけるのである。

なお、朝鮮鐘は現在のところ国内に50口近く伝存する。たとえば、藤堂高虎が持ち帰ったとされる伊予出石寺(愛媛県大洲市)のものが有名である。これは、重要文化財に指定されており、高麗王朝(918~1392年)の時期に朝鮮半島で鋳造されたという。サイズは常宮より小ぶりで、総高89.0センチ、口径55.7センチというものであり、今も現役である。

常宮神社の収蔵庫に収められた鐘は、新羅鐘と呼ばれている。鋳造年代は、新羅興徳王八年すなわち833年説が有力である。一見して、独特の形態から朝鮮鐘であること、加えて諸所に傷みもあることから、素人目に見てもきわめて古いものであることがわかる。

総高112.0センチ、口径66.7センチの、立派な鐘である。その表面を観察したが、美しい飛天が印象的だった。雲の上に座し、天衣の裾をなびかせ両手を広げてチャング(長鼓)を叩こうとしている姿は、まことに優美である。

朝鮮鐘を見学した私たちは、敦賀湾に向かって鎮座する本殿をめざした。拝殿は海岸に接しているから、船に乗ったまま参拝できたであろう。まさに、アジアを意識した神社だったことがわかるのである。

●古代の敦賀には特別な存在の王がいた

次に、向かったのは向出山古墳である。標高70メートルの小高い山陵に築造された5世紀末の首長墓からは、敦賀平野が一望することができる。往時は、敦賀湾からも見ることができたであろう。

私たちは、古墳の登り口から市教委の奥村香子さんのご説明を聞きながら頂上部へと登っていった。直径60メートルもある立派な大型円墳の上に立つと、この地域一体を支配した王の墓であることを実感する。

古墳には、平野方向に向けて方形の突き出た部分、すなわち「造り出し」が認められることから、帆立貝形古墳とみる説もあるそうである。頂上部には、二つの竪穴式石室があり、その壁は石積みの目地に粘土で固める朝鮮式の技法が認められるらしい。

出土品で特筆すべきは、鉄地金銅装の眉庇付冑と頸甲(いづれも敦賀市立博物館蔵)である。さっそく敦賀市立博物館文化振興課分室にうかがい、復原されたそれらを見学することができた。眉庇付冑は、庇付きのヘルメットであるが、なんといっても金部分が派手である。頸甲も随分立派なものので、これらを着用すれば、遠目にも鮮やかにみることができただろうと思う。

敦賀の市街地を望む位置にある向出山古墳(写真上)と鉄地金銅装の復原甲冑を持つ奥村香子さん。

敦賀の市街地を望む位置にある向出山古墳(写真上)と鉄地金銅装の復原甲冑を持つ奥村香子さん。

奥村さんは、このような立派な軍装をすることができたのは、後の角鹿直(つぬがのあたい)または角鹿海直(つぬがのあまのあたい)と呼ばれたこの地域の氏族の長だったのではないか、彼こそがわが国の古代国家揺籃期の角鹿を治めた王であったと仰る。畿内からばかりではなく、大陸からの近さを考えると、古代の敦賀は特別な位置づけが与えられていたのではないかと思った。

敦賀の最後に立ち寄ったのが、有名な天狗党の首領・武田耕雲斎等の墓である。一辺が30メートルで高さが4メートルもある随分立派な方形墳墓だ。幕末の水戸藩の藩論に影響をもった藤田小四郎(東湖四男)が中心になって、元治元年(1864)に筑波山で天狗党は兵を挙げ、各地で戦闘しながら在京していた一橋慶喜を藩主とするために京都に向かった。

天狗党の乱を主導した武田耕雲斎の墓も敦賀にある。

天狗党の乱を主導した武田耕雲斎の墓も敦賀にある。

当初、天狗党の軍勢は中山道を進軍したが上方に直接入るのは困難と判断し、迂回して敦賀に来たのである。彼らを待っていたのは、慶喜が鎮圧軍に属したという情報だった。そのような状況のもと、北国諸藩との戦闘に勝利することは困難と判断した彼らは、加賀藩に降伏した。小四郎の説得で首領となった耕雲斎ら天狗党関係者353名が、幕命によって処刑された後、ここに埋葬されたという。

そろそろ敦賀を離れて、若狭小浜をめざす時刻となった。敦賀は、北国の玄関口であるが、山越えをして近江に入り、京都方面や東海方面へと人やモノが向かう集散地でもあった。これに関連して指摘しておきたいのは、信長時代には安土の外港としての位置づけがあったことだ。

安土は、東海道や東山道(後の中山道)からは離れている。ここには、城内の船着以外にも豊浦(とよら)湊と常楽寺湊があり、湖上水運を意識した立地となっている。これらの湊からは、安土から塩津や大浦を経て敦賀へ向かう太いパイプがあったと考えられる。

信長が京都ではなく安土を選んだのは、とりわけ北国の良港を通じて東アジアさらには南欧と結びつこうとする意志があったからに違いない。海賊が出没する瀬戸内海よりも、敦賀のほうが中国や朝鮮半島がはるかに近かったからである。

安土に政権都市を置いたのは、天下統一後をにらんだ信長が、国際社会を意識していたからとみている。本能寺の変がおこらず信長が生存していたならば、敦賀は安土の外港として日本を代表する国際港湾都市へと成長したのではないかと想像する。

わずか1日半の滞在ではあったが、古代以来、敦賀の地がいかに交通の要衝だったのかがわかった。大規模な向出山古墳、北陸の表玄関を鎮護する気比神社、南北朝以来の金ケ崎城、秀吉によって新羅鐘が奉納された常宮神社、寄港する北前船の賑わい、地域文化を発信した大和田銀行、欧亜国際連絡列車が発着した金ヶ崎駅など、各時代を象徴する遺跡が目白押しで、ここに蓄積された歴史の地層に圧倒された旅だった。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」を書籍化。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442

『半島をゆく 信長と戦国興亡編』 1500円+税

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